市指定有形文化財 大谷家資料

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市指定有形文化財 大谷家資料

大谷家資料(おおやけしりょう)

大谷家は、米子市灘町にあって江戸時代を通じ海運業と魚鳥問屋を営んだ大商人でした。

大谷家3代の玄蕃(げんば)勝真は但馬国(たじまのくに:現在の兵庫県北部)大屋谷の出身で、伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県中西部)尾高城主杉原盛重(すぎはらもりしげ)に仕えました。その後、玄蕃の甥の甚吉が武士を捨て、玄蕃の二子を伴って米子に来て海運業を営んだのが始まりです。

大谷家資料は、大谷家の由緒を記した「大谷家由緒実記」、幕府から竹島(現在のウルルン島)渡航の許可を得たことを示す「葵紋入船印」や「葵紋入進上用指札」、徳川2代将軍秀忠より拝領の「時服(じふく)」、大谷家の屋敷や魚座(魚市場)の載った「大谷家屋敷魚座等周辺図」などで構成されています。米子の歴史上はもちろん、わが国の外交上でも重要な意味を持つものです。

竹島渡海は、米子町の大谷(大屋)家、村川家が幕府の許可を受けて、元和4年(1618)から元禄9年(1696)までの約80年間、毎年交替で渡海往来し、島の資源を得たものです。

その経緯は次のように伝えられています。元和3年(1617)、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)からの帰途、暴風雨で竹島に漂着し、当時無人だったこの島に魚介類や珍木が豊富なことを発見しました。

帰国後、村川市兵衛の協力を得て幕府から竹島の渡海権を得ましたが、元禄9年(1696)に朝鮮国との紛争を恐れた幕府が渡海を禁止としました。

  大谷家資料葵紋入船印  大谷家資料指札

掲載日:2022年2月17日