市指定史跡 中村一忠墓地 附中村一忠主従木像三体

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市指定史跡 中村一忠墓地 附中村一忠主従木像三体

中村一忠墓地 附中村一忠主従木像三体(なかむらかずただぼち つけたりなかむらかずただしゅじゅうもくぞうさんたい)

慶長5年(1600)伯耆18万石の城主として駿河国駿府から移ってきた中村一忠は、駿河国にあった感応寺を城山の背後に位置するこの地に移し、中村家の菩提寺としました。

一忠は当時11歳という若年であり、藩の実権は家老の横田内膳が握っていました。それを不満とする一忠側近のねたみを受け、内膳は慶長8年(1603)に城中で殺されました。一忠も慶長14年(1609)に20歳の若さで病死し、跡継ぎがなかったので所領は没収され、中村家は断絶となりました。一忠は生存中、将軍秀忠の一字を許されて、公式には「松平伯耆守忠一」と称しました。戒名は「青龍院殿一融源心大居士」で感応寺裏山の墓域に葬られました。

後に、一忠に殉死した二人の小姓垂井勧解由と服部若狭とともに三人の木像が作られ、墓域の御影堂に安置されました。明治42年(1909)に中村一忠300年祭に老朽化した御影堂を廃して、木像は本堂に移し祀られました。墓域は整備されて新しく「故伯耆守中村一忠公之墓」が建てられ、また、昭和34年(1959)350年祭の時、墓域に五輪塔が建てられました。

今日の米子市の基を築き、米子城で亡くなった中村一忠の関係資料として、墓地と木像は貴重です。

掲載日:2021年2月1日