市指定無形民俗文化財 淀江さんこ節

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市指定無形民俗文化財 淀江さんこ節

淀江さんこ節(よどえさんこぶし)

淀江町は、古くから天然の良港に恵まれ、山陰の交易拠点として栄え、特に江戸時代後期からは北前船の発達により、日本海沿岸や九州、京阪神との交流が盛んになり、商業の中心地となりました。

このような交流のなかで、九州や北陸から伝わってきた民謡と、淀江に古くから伝わる「さんこ節」が融けあい、独特の節回しでリズム感あふれる「淀江さんこ節」が誕生したといわれています。

安来節の元唄といわれるように、七七七五調の歌詞で、三弦や太鼓、鳴り物の調べにあわせ『唄の出処 伯耆の淀江 昔ながらの さんこ節』と歌われ、今でも古調を残しています。

『花の様なる 巳之助さんは 惜しや淀江の焼け町に』の歌詞から考えると、元禄12年(1699)の淀江大火以降、少なくとも300年以上は歌い継がれてきたと推測されます。

明治の初めにあらわれた女性の唄い手が大変な人気を集め、ここに「淀江さんこ節」は全盛期を迎え「さんこならでは夜もあけぬ」あり様になったようです。

『港出て行く 船乗り衆が さんこ 見たさに 帆を揚げぬ』

『淀江さんこと 石馬さまは 淀江名所の 誉れなり』

淀江さんこ節は一大ブームを巻き起こし、夜ごとの宴席でにぎやかに歌われたようです。庶民の芸能として発達した「淀江さんこ節」ですが、元来は、いろいろな作業をしながら歌われたものです。つらい仕事を楽しく、また、その仕事量を計る目安にもなっていたと考えられます。

歌われてきた様々な仕事のなかから、曲のテンポに合い、滑稽な仕草の「壁塗りさんこ」が踊られるようになりました。弟子が泥を練り、親方に投げ上げ、塗り込んでいくという左官屋さんの土壁を塗り上げる様子がユーモラスに演じられています。銭太鼓とともに祝宴の場には欠かせないものとして持てはやされたようです。

掲載日:2021年2月1日