判屋船越家住宅主屋(はんやふなこしけじゅうたくおもや)、東蔵(ひがしぐら)、西蔵(にしぐら)、裏門(うらもん)
天神町の判屋船越家は、江戸時代初期に備前(びぜん)岡山から鳥取を経て米子に移り住み、寛永期(1624~1644)に荒尾氏の要請で当町の総支配をつとめることになった有力商人の一人で、代々船問屋を営んでいました。11代船越清太郎は、明治40年(1907)には県会議員となり、米子桟橋組合長なども務める米子の名士でした。
判屋船越家に現存する建物群は、明治33年(1900)から3年間かけて清太郎の代に新しく建てなおされたもので、道路前面に主屋が建ち、背面に土蔵2棟とその間に裏門を開き、屋敷のなかほどには露地風(ろじふう)の庭園を配しています。
主屋は木造二階建、桁行き6間半、梁間8間、二列奥行き四室の大型の町家建築で、2階のたちが高く、造作等からも明治時代後期の建築であることがわかります。正面東の入口を入ると、広い土間があり、とおりにわが奥の竈場(くどば)、井戸場に抜けます。入口には吊り下げ式の大戸が設けられ、潜(くぐ)り戸も付いており、古い様式を伝えています。とおりにわの土間から見上げると、黄味をおびた土壁と赤味をおびた松の大梁や束で小屋組が組上げられ、大屋根を支えているのがよく分かります。土壁の梁をはじめとする木肌との対比は美しく、町家の質の高さと力強さがよく表現されています。
奥側の列は、前面に前庭、後方に庭園があり、その間に表座敷、仏間、奥座敷と前後三室が並んでいます。表座敷と奥座敷には、いずれも床・棚・書院が備わっており、ここにも町家における精練された座敷空間を見ることができます。奥座敷の先には縁を挟んで奥行きのある露地風枯山水の庭園があり、奥の築山は蓬莱山(ほうらいさん)を見立てています。なお、主屋の奥座敷の西南には廊下が延び、その先に庭に張り出す便所が設けられています。また、とおりにわの南には東蔵まで切妻屋根が延び、その下に竈場、井戸場、風呂場、便所、味噌小屋が続いています。
屋敷地の南側には、棟を南北にして東蔵と西蔵が並んでいます。西蔵は、主屋の建築と同時期に庭園が整備された際に、その南に建てられた明治時代の建物ですが、東蔵は、主屋より古く、江戸時代に建築されたものと伝えられています。東蔵と西蔵の間には裏門が設けられ、裏地との境を仕切っています。
判屋船越家住宅の主屋・東蔵・西蔵・裏門は、江戸時代から続く米子の町家建築の特徴や、質の高い町家建築の構成をよく伝え、主屋の座敷空間の造作も優れています。
掲載日:2022年4月5日