国史跡 鳥取藩台場跡淀江台場跡

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国史跡 鳥取藩台場跡淀江台場跡

鳥取藩台場跡淀江台場跡

 写真:鳥取藩台場跡淀江台場跡
鳥取藩台場跡淀江台場跡

「お台場」といえば、東京都港区の「お台場」を連想される方も多いかと思いますが、江戸時代の終わりごろに、外国船の来襲に備えて全国各地に造られた砲台の跡です。

鳥取県内では、岩美町の浦富、鳥取市の浜坂・賀露、湯梨浜町の橋津、北栄町の由良、琴浦町の赤碕、境港市の境、そして米子市淀江町の8か所に築かれました。

淀江町今津にある淀江台場跡は、文久3年(1863)に築かれたもので、現在は、長さ約65メートル、高さ約5メートルの土塁が残っています。昔の絵図を見ると、現在の土塁の両端がさらに翼のように延びていたことがわかります。現存する部分は、海に面した方の下部であり、もとの高さは、現在の3倍くらいはあったといわれています。台場の全面を覆っている赤土は、大山町の晩田山から運ばれたと伝えられています。当初は国産の大砲3門が備えられ、後でさらに8門が増設されたようです。

淀江台場跡と松波宏年(徹翁)

鳥取藩は、お台場の警備を、因幡地方については藩士に、伯耆地方については郷士や大庄屋に分担させました。淀江台場に関しては、松波宏年(徹翁)《まつなみひろとし(てつおう)》が所有の田畑を砲台の敷地として無償提供し、砲台の築造は、長崎で蘭学や築城法を学んで帰郷した松波宏年(徹翁)の長男・宏元の設計によるものでした。淀江台場跡の特徴は、土地を提供した人、設計した人、守備する兵隊などすべてが、松波宏年(徹翁)をはじめとする地元の人たちだったということです。こののち、松波宏年(徹翁)は、第2次長州征伐後、戊辰戦争などで活躍しました。

淀江台場跡の変遷

明治31年以降、養良(ようりょう)高等小学校(旧淀江産業技術高等学校の前身)の建設に伴って、土塁の一部が削られました。その後、何度かの変遷がありながらも、養良高等小学校は昭和45年(1970)に県立西部農業高等学校となって移転し、「お台場公園」として整備されました。

掲載日:2015年2月25日