国史跡 上淀廃寺跡
上淀廃寺跡は、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡です。平成3年(1991年)からの発掘調査で国内最古級仏教壁画片が大量に出土し、飛鳥時代の堂塔内部を復元しうる数少ない寺院跡として、平成8年(1996年)に国の史跡に指定されました。また、金堂の東に3塔を南北に配する設計も、堂塔配置が規格的である古代の寺院において他に例が無く、建立者の独立性が窺えるこの寺院の特徴となります。建立者はわかっていませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設をもつ、地方では大規模な寺院で、壁画片の他、仏像片、瓦、土器、鉄器などが出土しています。古代社会制度の崩壊が進む平安時代中期(11世紀)に焼失します。
創建された時代
年表
時代
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西暦
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日本
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東アジア
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飛鳥
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593 |
法興寺(飛鳥寺)完成 |
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604 |
憲法十七条の制定 |
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607 |
法隆寺創建 |
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618 |
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隋が滅び唐がおこる |
623 |
法隆寺金堂釈迦三尊像 |
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645 |
大化の改新 |
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663 |
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白村江の戦い |
672 |
壬申の乱 |
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680 |
薬師寺造営 |
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683
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富本銭鋳造
このころ上淀廃寺創建される |
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奈良
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710 |
平城京遷都 |
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741 |
聖武天皇、国分寺国分尼寺の建立の詔 |
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750 |
このころ上淀廃寺の本尊、替わる |
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752 |
東大寺の大仏開眼供養 |
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平安
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794 |
平安京遷都 |
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995 |
藤原道長、右大臣になる |
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1000 |
このころ上淀廃寺消失する |
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境内と全体像
発掘調査の結果、なだらかな丘陵の南側一面が境内として造成されていることがわかり、北と西辺では土塁とともに境界をなしていたと見られる溝跡が確認されました。東の造形範囲や地形から見た当初の境内は、南北1町(約106メートル)、東西2町(約212メートル)と想定されます。境内の広さは、旧伯耆国(現在の鳥取県中西部)では大御堂(おおみどう)廃寺(倉吉市)や斎尾(さいのお)廃寺(琴浦町)とほぼ同じで、地方では最大規模の寺院といえます。地形や中門の位置から南側に大門があったと考えられますが、これまで確認されておらず、地形的に消滅している可能性が高いものとみられます。境内のほぼ中央には、金堂や塔が配置される中心伽藍が位置し、その周辺に経蔵または鐘楼、政所または食堂、倉庫と推定される建物などが確認されています。他寺院の記録を見ると、この他にも僧坊や客坊、厨(くりや)、大炊屋などの施設や、花園院、薬園院などが営まれていたものと想定されます。
中心伽藍の様子
中心伽藍とは、金堂や塔などが位置する寺院の中枢部のことです。古代では仏の空間として回廊や築地で区画され、通常、僧侶以外は入れなかったようです。
上淀廃寺では、規模はおよそ半町(約53メートル)四方を測り、南面を回廊、東西面を築地で区画したと考えられます。建物の配置は金堂の東に3塔を南北に並べる特異な配置をとっており、3塔の心礎は一直線上に等間隔で並びます。設計では、金堂と中塔の南辺をそろえ、中門の位置する中軸線は、ほぼ金堂基壇の東辺にあたるものとみられます。ただし、北塔については実際には建てられなかった可能性もあり、焼失時点では、金堂、中・南塔の3棟が建っていたことがわかっています。
また、古代寺院においては、通常中心伽藍の後背縁辺に位置する講堂については、これまでの調査で発見されていません。地方寺院の場合、変則的な建物配置をとる例も多く、中心伽藍からやや離れた場所に営まれた可能性も考えられます。
金堂跡
金堂とは、本尊を安置する仏殿で、寺院の中心的な建物です。7世紀の終わりごろ建立され、8世紀の中ごろ改修されたと思われます。発見当初は既に水田耕作で削平されていましたが、整備事業で創建時の基壇を復元しています。礎石もすべて動かされていましたが、基壇規模や堂内荘厳の検討を基に想定したものです。基壇規模は、全体で南北12.7メートル、東西14.4メートルを測ります。水田耕作で削られており建物の構造は不明ですが、基壇は塔と同様に瓦積の周囲に石列を巡らす二重になっています。
正面となる南側には、基壇に至る石敷きの階段が確認され、基壇上に至る木製の階段も想定されます。8世紀中頃に大規模な改修を受けています。
金堂周辺から出土した中から、まとまった量の仏像と壁画の断片が確認されました。平安時代に焼失した時の堂内には多くの仏像が安置され、壁の内側に仏教壁画が描かれていたと考えられます。仏像は塑像で、創建時は高さ1.2メートル(半丈六級)の如来坐像を本尊として四天王像や八部衆が、改修時に高さ2.4メートル(丈六級)の如来坐像と3メートル(一丈)の脇侍の菩薩像が本尊として安置されたと考えられます。また、壁画は、日本の発掘確認された壁画の中でも上淀廃寺は出土量・まとまりにおいても群を抜く多さで、図柄まで特定できます。二時期のものが混在していますが、白鳳期にさかのぼる創建時のものは、細かな複数の仏像によって構成されていることから、釈迦が説法を説く「説法図」または浄土の様子を描いた「変相図」と想定されています。
なお、「上淀白鳳の丘展示館」では、解説とともに金堂の復元の様子や原寸大の仏像、壁画や天井画の細部まで再現した展示室があり、当時の荘厳な様子を見ることができます。
3基の塔跡
上淀廃寺には、南北に3基立てる計画だったようですが、実際に立てられたのは中塔と南塔の2基と考えられています。
基壇はおよそ10メートル四方で、瓦積みの外側に石列を巡らす二重になっており、その規模から三重塔と考えられます。中央に芯柱を支える心礎石が残っています。また、中塔心礎からは、仏の遺骨を納めるための「舎利孔」とよばれる穴も確認されています。
付属建物
中心伽藍の北側の丘陵に、掘立柱建物の付属建物が確認されています。
付属建物(103号建物跡)
周辺から「寺」の文字が刻まれた土器が出土しており、食器を保管していた可能性が考えられる掘立柱建物です。
付属建物(104号建物跡)
食堂(僧侶の食堂)または政所(寺務所)と考えられる建物跡です。縦・横が柱4本・5本(5.7メートル・9.0メートル)の掘立柱建物で、南と東西の3面に庇のついた建物です。直径30センチメートルの柱の痕跡が残っていました。
付属建物(105号建物跡)
経堂(お経を入れる蔵)または鐘楼(鐘つき堂)と考えられる建物跡です。縦・横が柱3本・3本(4.95メートル・4.2メートル)の掘立柱建物で、直径30センチメートルの柱の痕跡が残っていました。
出土品の数々
金堂周辺からは、5394点を超える壁画断片を出土しています。火事で焼けたため、ベンガラ、緑青や群青などを除き当時の彩色は失われていますが、出土の3分の1は彩色が認められます。また、金堂及び中・南塔周辺からは、約3800点もの塑像片が出土し、なかでも造形が確認できるものは769点あります。そして、瓦も多く出土しており、そのなかから「癸未年(みずのとひつじのとし)」と刻まれた瓦片がみつかり、683年に当たると考えられることから、このころ上淀廃寺が造営されたとわかりました。
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壁画
「神将」
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上淀廃寺創建当初に描かれた。
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塑像
「如来:頭皮と螺髪」
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螺髪(らほつ)…如来の髪の毛。「螺」は巻貝を意味し、右巻きである。
如来…悟りを開いた人で、「ブッダ」と同じ。
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塑像「菩薩像:足指」
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金堂西側から出土。爪の方向から推察すると右足と思われる。
菩薩…悟りを開くため修行している人
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塑像:忿怒(ふんぬ)像
「天部像:顔面部」
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忿怒(ふんぬ)=怒りの形相の天部像または邪鬼
天部像…一般に、仏教上の守護神・福徳神の意味あいが強く、帝釈天や毘沙門天、四天王、金剛力士などがある。
邪鬼…物の怪。仏法を犯す邪神のため、四天王に踏まれ苦し悶える表情をしている。
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単弁12葉蓮華文軒丸瓦 |
上淀廃寺の創建時(7世紀後葉)の金堂の屋根を飾っていた。
蓮華文…ハスの花を元にした模様
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平瓦・丸瓦
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平瓦には、軒先から10センチメートルから20センチメートルの位置に櫛描きの波状の文様が施されている。
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※これらの出土品のほか、数多くの出土品を「上淀白鳳の丘展示館」に展示しています。
… 上淀白鳳の丘展示館ウェブサイト
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【参考資料】
上淀廃寺跡パンフレット( 3.65メガバイト)
掲載日:2014年2月14日