岡成の大堤
…昔、ある村に白いひげを伸ばした老人が朝早くやってきて「この村はまもなく洪水に襲われるから、早く高台に逃げるがいい」と話した。話を信じた村人はあわてて高台に逃げたが、信じなかった村人はそのまま家にいた。ところがまもなく老人の言葉どおりに洪水が押し寄せてきて、村に残っていた人はみんな死んでしまったと…
「白ひげ水」という昔話です。
日本は雨が多く山は急で、水害が起こりやすい地形です。その水害も多くは農作物の成長期に訪れますので、古くは、水害は神の怒りの表現、と考えられていてこんな話が生まれ、語りつがれたものでしょう。
周囲450メートルほどの岡成の大堤は、はじめは尾高城を守るために造られた堤だったそうですが、早くから農業用水として田をうるおしていました。ところが、享保11年(1726)12月、突然堤が60メートルにわたって抜け落ち、尾高の前市は家・田畑残らず流され、13人の死者が出る大惨事が起こりました。
それから半世紀後の安永7年(1778)6月21日夕方、6時頃から雨が降り出し、雷は一晩中鳴り響き、夜10時頃からは今まで経験したことのない大雨が降り出し、夜中の4時まで「降る事(水を)うつす如ク」と記録されています。雨があがったので出てみると、堤に長さ10メートル、幅4メートルの広さで3.6メートルの深さまで崩れかけていました。あわてて福万の大庄屋や村役人に連絡しようとするものの大水で川が渡れず、23日になってやっと連絡がとれました。もっとも尾高には22日の内に、堤が危険との情報が伝わったので、人々は50年前の災害を生々しく思いだし、村の高台に老人・子ども・病人の順に避難させ、次に牛馬・家財道具を運ぶため道路はすれ違いもできないほどの騒ぎになり、夜ともなれば提灯の火が引きも切らず続いた、と書かれています。
26日・27日にも豪雨になり心配しましたが、幸いにも安永のこの2回の豪雨にもかかわらず堤は持ちこたえ、決壊はまぬがれました。
その後、明治26年10月など何回もの豪雨がありましたが、修復工事と管理が立派だったためか決壊はしていません。
逆に嘉永6年(1853)には5月からの百日ひでりに、岡成堤はからっぽになってしまった、といいます。堤にも歴史がありました。
静かなたたずまいの岡成池(大堤)
平成16年6月号掲載
掲載日:2011年3月22日