ロッカツヒテイの
氷餅
…昔、魚売りが馬に魚を背負わせ、峠を越えて行っていたら山姥が出てきて、魚はもちろん馬まで食われてしまった。驚いた魚売りが命からがら逃げ込んだ家は、運悪くその山姥の家だった。満腹で帰ってきたはずの山姥は、まだ食い足らなくて、乾いてひび割れた正月の鏡餅を焼いて食べようとしたが、隠れて様子を見ていた魚売りに横取りされ、遂には山姥が魚売りに復讐されてしまう…
「馬(牛)方山姥」という昔話です。
6月1日には、山姥が食べようとした正月神棚に供えトンドの火で焼いた硬い鏡餅を、氷餅とか歯固めといって昔は食べていました。この氷餅に霊力があり、それを食べることにより体力の消耗する夏に勝つ力を与えられる、と考えたからでしょう。
またこの日は1年の後半の始まりの日とみて、氷朔日・ヒテエ正月・ロッカツヒテエ(6月1日)・小正月などといいました。江戸の昔には、悪病が流行したり地震などで世情不安の年ならば、縁起直しにこの日をハヤリ正月といって、正月をやり直す風習があったそうです。
ところで暑い夏にこの氷餅ではなく、機械で氷を作る製氷工場が日本で初めてできたのが、わが米子だったことはトライアスロンほどは知られていません。羽合町出身の中原考太が明治32年(1899)5月に「日本冷蔵商会」を城山の麓、かつての稲田酒造会社の隣(今は医大病院の裏道)に開業しました。山陰の鮮魚を冷凍し、また凍豆腐を製造して阪神方面へ売り出すのを目的にしたのですが、当時はまだ鉄道がなく船便だったこと、受け入れ側に冷蔵施設がなかったこと、1日2、3トン作られる氷がさばき切れなかったことなどが原因で、結局6年後の明治38年、米子を撤退し、工場を神戸に移し「日本冷蔵株式会社」として成功しました。余談ですが元国立がんセンター総長の中原和郎は考太の息子です。
氷の欲しい季節になりましたが、今年は年頭から戦争話やら新型肺炎やら肝を冷やす事件ばかり続き、氷もいらないかも…。いや興奮した頭を冷やすためにもやはり氷は必要ですかな。昔なら今年なんかはハヤリ正月をしたでしょうが、氷餅でも食べて、あと半年を頑張りますか。

日本冷蔵商会記念写真(新修米子市史より)
平成15年6月号掲載
掲載日:2011年3月22日