感応寺橋と三角十右衛門
5月は水防月間です。今は新加茂川ですが、江戸の昔は米子城の堀であった感応寺の前に、感応寺橋とか湊橋といった橋がかかっていました。当時、橋の長さは約20メートル、この辺りでは一番長い橋で橋脚がありました。が、あそこは海水と川水の混じる地点で橋脚がすぐ朽ちたり、大水で押し流されたりしたので、堀の両端を少し石垣で築き出し、橋脚のない橋にしました。ところが、大水のたびにでっぱった石垣が水の勢いで崩れ、相変わらず橋が流されていました。
江戸の終わり頃、大工町に三角十右衛門という人がいました。親は足軽でしたが、彼は大工になりました。見かけは鈍げな人でしたが、本当は頭の冴えた快活な人でしたので、日ならずして棟梁になりました。彼は外出の時はいつも目盛りの入った杖を持って出かけ、あちこち寸法を測りながら歩いていました。そんな人でしたから天明2年(1782)に米子城の絵図を描くように命ぜられると、計測といい、方位といい、正確無比な絵図を描いて人々を驚かせました。
棟梁としても腕を振るい、天明5年(1785)米子城天守閣の修理をし、翌年冬には牢屋を改築しました。当時、牢屋を建築する大工はその地方第一の大工だったそうです。建築の功労として、死罪になった罪人一人を助命できる慣習があったようで、彼は寛政4年(1798)死罪判決を受けた人の命を助けています。
5月連休に旅をする人が多いように、当時もちょっとした旅行ブームでした。お伊勢参りです。彼も例の杖を持って伊勢参りに行き、帰りに高野山に回りました。そこで彼は32メートル余りの長い橋が谷川に橋脚も無くかかっているのを見ました。早速橋を降りて下からその構造をじっくり観察し、杖で計測して帰ってきました。それから感応寺橋を高野山で見てきた工法でかけ直し、橋脚なしの、洪水に強い橋にしました。時に寛政5年(1793)のことです。
文化5年(1808)正月2日、町が新しい年を迎えてにぎわっているとき、彼は70余年の充実した生涯を終えました。今、万福寺に眠っておられます。

かつての橋は、今の祗園橋のあたりに架かっていました
【注】新加茂川は「加茂川」が正式名称ですが、このお話の中では、通称として親しまれている「新加茂川」を使っています。
平成15年5月号掲載
掲載日:2011年3月22日