米子城と柳の木

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米子城と柳の木
米子城と柳の木

柳の緑も萌える頃になりました。北国の歌人は「柔らかに柳青める北上の…」と望郷の詩をうたいましたが、加茂川の畔にも「ふる里の加茂の川辺の川柳…」と憂国の郷人の望郷の歌碑が立っています。
柳といえば、こんな昔話が語り継がれています。

…昔、ある所におりゅうという名のきれいな娘がおった。この娘の所に、背の高い、いい若者が好きになって毎日のように通って来とったが、ある日、若者が「今日でお別れだ」と寂しそうにいった。おりゅうはびっくりして「何でだ?」と聞くが、男は何もいわずに帰ってしまった。
次の日から村の中にあった柳の大木が木こりさんの手で伐られだした。何でも京の三十三間堂の棟木にするためだそうだ。ところが、伐っても伐っても昨日伐った所が今日は元通りになってしまう。困った木こりさんは、神さんにどげしたらいいかと問いながら一心に拝んだ。すると夜、神さんが木びきさんの夢に現れて、木を伐って出る木くずをすでに焼いてしまえ、と教えてくれた。その通りにしたら、さすがの柳の大木もとうとう伐り倒されてしまった。
この木を京都に運ぼうとして引っ張った。ところがおりゅうの家の前まで来たら頑として動かんようになった。「こりゃあひょっとしておりゅうの所に来とったあの若者は、この木の精霊じゃなかっただらあか?」という者がいて、おりゅうに立ち合わさせよう、いうことになった。おりゅうが優しく柳の木をなで、引っ張ると、大の男が総掛りでも動かざった大木が滑るように動き出して、無事に三十三間堂の棟木になったげな…

米子にはこんな話が伝わっています。

米子城を造った時のことだといいます。城の大手門を造る時、三本の柳の大木を伐って門の柱にしたそうで。大手門は国道九号線と湊山球場からの道(昔の内堀)が交差する南西角あたりにあったといいます。その時、さっきの「おりゅう柳」の昔話のようなことがあったのか、なかったのか、伝承されとりませんが、ただ三本の柳の大木を出した村の名が、それによって決まったんだとそうですと。さあ、何という名の村になったと思います?

………そうです。「三柳」です。三柳という地名はこうして付けられたんですと。


寛文7年(1667)6月9日 「米子城石垣御修覆願絵図」より
大手門は赤丸の中にある。現在は城山と飯山の閻を国道9号線が走り、当時の姿をしのぶことはできない。

平成12年6月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。