米原
太鼓
8月は盆があって、その上終戦の日も重なって、亡くなった人がしのばれる月です。
盆といえば盆踊り、盆踊りといえば米原太鼓の話が頭に浮かびます。実はこの話には2つの話があって、(1)は人柱(2)は
継子
いじめの話です。どっちが本当だやら知りませんけど、どっちも悲しい話です。
(1)
弓ヶ浜は砂地で水が無あて、長いこと米作りができませんでした。江戸時代になってから、砂の浜で米作りをするために、米川を作って水を引き入れる工事が始まりました。
ところが、米原まで川を引いて来たら、土手をなんぼ築いても崩れるだいって、それで人柱を立てることになりました。人柱には、盆太鼓を打つのが上手な米原の若者がなったそうで、若者は太鼓を打ちながら穴に埋められましたと。
(2)
米原に心の優しい別ぴんの娘さんがいました。生みの母が早くに亡くなったので、体が不自由なお父さんは継母をもらいました。ところがこな衆は意地悪で、娘さんを何のかのといってはいじめました。が、娘さんは気にもせず、よく継母に仕えていたそうです。
娘さんはまた盆踊りの名人でもあったので、盆が近づくとあっちの村、こっちの村と呼ばれて、夜遅くまで踊りを教えて回っていました。
ある日のこと、娘さんは昼間のきつい仕事をした後に、夜いつものように踊りを教えて、くたくたになって戻ってぐっすり寝込んでしまって、陽が上っても起きてこれんかったそうです。それを継母がえらく腹を立てて、何と焼火箸で娘さんを痛めつけ、とうとう殺いてしまったそうです。
(これからは後は(1)(2)共通)
そのことがあった次の年の盆の夜から、地の下ですすり泣くような太鼓の音が響きだしました。この音を人々は「米原太鼓」といって哀れがったそうです。もっともこの太鼓の音は、地元の米原では聞こえずに、遠くの村で聞こえる、って言われています。
この音の出る所が田のあぜでしたので、そこに小まけな供養碑が建っていましたけどなあ、田や川の改修でどさくさした折りに、無くなってしまいました。
写真:以前、小さな供養碑が建っていた米子北高付近の田
平成9年8月号掲載
掲載日:2011年3月18日