もうひとつの「米子」の地名伝説
今月末には淀江町と合併して新米子市が生まれ、全てが新たになります。このシリーズを「『米子』の地名の起源」で始めましたので、最後も異説の「米子」地名伝説で締めさせてもらいます。それは、こういう話です。
…湊山に米子城を建てる時の話だそうだから天正19年(1591年)のことだろうか、毛利氏の一族である吉川広家が建て始めた訳だが、彼はこの土地の人間でないので土地のことがよう分からん。そこで彼は家来にこの地について詳しい人を捜させたところ、眼鏡にかなったのは八十八になる爺さんで、その人が子どもを連れてやってきた。
この爺さんの案内であちこち見て廻ったが、いやこの爺さんのよく知っていること、何を聞いてもたちどころに答えが返ってくる。またその詳しいこと、かゆい所に手の届くような親切ていねいな説明だったそうな。吉川広家はこの爺さんの説明にほとほと感じ入り、これ以後この辺りの地名をこの爺さんに感謝を込めて、その年齢の八十八を「米」につくり、また子連れであったので「子」を入れ「米子」ということにしたのだそうな…
戦国の武将は命を的に戦いましたので、武運の長久を願っていろいろ縁起をかついだものだそうです。城を築くとなると、当然地形的にも敵を防ぐように造られていますが、そればかりではなく方位を風水師に占わせたり、あらゆる良いと思われる方法を取り入れて築いたと言います。ですから米子築城の時にも地元の米寿の爺さんに相談したというこの話、本当かどうかはわかりませんが、本当であってもおかしいことではありません。
こうして300年間、米子の町から見上げられ「麓には 海をたたえて湊山 仰げば高き 峰の高殿」(宝永5年詠)と歌われた米子城も、維新後は旧時代の遺物として遂には風呂のたき木、というまことに米子風な合理的処理法で解体されたことはご存じの通りです。今は城跡だけですが、これはこれでありし日の城の情景が様々に想像でき、春夏秋冬風情があってよろしい。それでは駄文もこの辺りで終わりとします。灰 さよなら。
ありし日の米子城天守閣
(写真提供:冨田公夫さん)
平成17年3月号掲載
掲載日:2011年3月22日