刑場跡(住之江公園)

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刑場跡(住之江公園)
刑場跡(住之江公園)

「東海道中(ひざ)栗毛」を真似て、九九散人(くくさんじん)なる米子の粋人が安政3年(1856年)にその続編を書き残しておられます。
それは、弥次・北両人が出雲大社参りを思いつき、大山・尾高村を過ぎて日野川を渡ったところから話をはじめます。

…車尾村を打ち過ぎ勝田村にさしかかりたるに、右手の方に少し小高き所、四方に松連なりて中に大きなる塔ありければ、
北八「弥次さん、あれ何の塔でありやんしょうな、良い松陰だ、あそこで休んでから行きやしょうか」
弥次「米子はもう近くなった、一服やらかそう」
と畑の小道を行き、かの松林の内にて両人砂の上に座して休息をなす。
北八「何といい所だないか、向こうに見ゆるが大山の御山、誠に田舎には惜しい景色だ。前は往来の人を見ていい気晴らしな所だ。弥次さん、ここに茶屋でもしたらよっぽど当たるでござりやしょう」

話す内、かの往還の道の下の畑にて農婦共、畑の草を取り取り話すを聞けば、
農婦「まあ七ツ(午後4時)の太鼓の音がする、おらぁ()なぁか、昨日(きんにょ)の事思やあ、おぜい(きょう)とくなった、お真さんお前ゃ昨日(きんにょ)見さんしたか」
お真「おらぁ見なんだが、隣の彦六さんの話を聞たりゃあ、この畑にはよう来やんすまいと思うたが、来て見れば人通りもあるし(きょう)てい事ぁござんせぬが、もう七ツになったりゃあ、また(きょう)とくなりやんした。お福さん、()にやんしょうか」
お福「()にやんしょ、昨日(きんにょ)おらも向こうの権七さんとあの畑の中まで来て見…ア、アレアレ見さんせ、丁度あの旅人が休んでござる所で盗人が1人切られ、またあの先でも切られたげなが、おらあ(きょう)とくなったけにすぐ()んだが、後で聞いたりゃあ(きょう)てい事だったげな。お真さん、もう人通りもなくなった、早よう()にやしょう」

北八「弥次さん、今の話を聞きやしたか、ここは成敗所(刑場)のような話ぶりだ、お前の休んだ所が切られた場所のようだ」
弥次「道理で…情けねえ所で休んだ、全体お前が此所い連れて来くさるからまたしくじった」
と小言を言い言い両人はそこを立ち出、
…北八一首
何事も知らぬが仏 尻かけた所を聞けば地獄なりけり…

江戸時代の刑場周辺の風景がよくわかる文章です。
23日は秋彼岸。刑場の露と消えた人々の霊にも回向(えこう)手向(たむ)けたいものです。

(「北八」は現在、「喜多八」という表記が一般的ですが、初期の「膝栗毛」では「北八」と書かれており、また九九散人も「北八」と書いていることから、ここでは「北八」の表記を用いました。)


刑場跡に建つ合葬の碑

平成16年9月号掲載

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掲載日:2011年3月22日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。