伝・児島
高徳の墓
昔の人は、歌いながらこんな具合に謎掛けをしたそうです。
「なぞなぞ掛けます解かしゃんせ」
「知りたるなぞなら解きますが、知らないなぞならあげて聞く」
「それでは私が掛けましょう。児島高徳と掛けて何と解く」
「よう掛けしゃんした解くわいなぁ、鉛筆削りと解くわいなぁ」
「よう解かしゃんした、お心は?」
「どっちも木を削って文字を書く」
児島高徳、と聞いて説明しなくてもこの人の事がわかる世代は少数派になりました。
鎌倉幕府を倒そうと計画した後醍醐天皇は、計画がばれて隠岐島に流されることになりました。元弘2年(1332)3月7日京都を出発し、10日後の17日には津山の院ノ庄に着いています。ここで児島高徳は、天皇を救い出そうとしますが、幕府側の警戒が厳しくできません。止むなく彼は天皇の宿舎に生えていた桜の木の幹を削って、天皇を励ます言葉を書き残します。いわく、「天勾践をむなしゅうするなかれ、時に范蠡無きにしもあらず」
読んだだけではチンプンカンプン何のことやら訳がわかりません。朝になって桜の木に書いてあるこの字をみつけた警護の武士にも意味がわからなかったそうですが、天皇にはよくわかって大変喜ばれた、と『太平記』にはあります。
ところで高徳は、天皇救出作戦をあきらめて帰ったかと思いきや、米子の伝説では、救出の機会をねらって院ノ庄から米子までやって来て、米子で亡くなった、というのです。
児島高徳は、備前岡山の邑久郡に生まれたといわれていますが、実在の人物だったかどうか疑問視されています。岡山の児島に本拠がある五流山伏のことでは、とか『太平記』の作者が小島法師という人だから、彼こそ児島高徳では、という説もあったり今に至るも決着のつかない人物ですが、凉善寺には彼の墓があって、丁重に祀られています。
戦前には文部省唱歌にこの人の歌があって歌いました。
♪船坂山や杉坂と、御跡慕いて院ノ庄…。このあたりまでの歌詞はわかりますが、♪天勾践…。になるとさっぱり意味がわからず、替え歌を作って歌っていました。その中のひとつ。♪扁桃腺を腫すことなかれ、時に死ぬる人無きにしもあらず…。
まだまだ寒い風邪の季節です。扁桃腺をお大事に。
凉善寺(岩倉町)にある児島高徳の墓
平成15年3月号掲載
掲載日:2011年3月22日