弁慶石
京の五条の橋で牛若丸に負けた弁慶は、松江で生まれた。という伝承が、出雲では江戸時代には盛んに語られていたようでして、弁慶伝説が多く残っています。
例えば、弁慶の母は紀州(和歌山県)田辺の人ですが、美人でなかったので縁談一つない。 そこで縁結びの神・出雲大社にお願いに来た帰りに、早速霊験あって天狗と結ばれ、松江で弁慶を生むのですが、そのつわりがものすごい。普通なら梅干しが欲しい、ですが、鉄気を欲しがり農家にある鍬を片っ端から食うので、彼女が来ると鍬を隠した、と言いますし、13か月で弁慶は生まれたけれど、その時は髪も歯もそろっていて、産湯の井戸を生まれたばかりの弁慶が、自分で掘ったそうですと。
胎児の時、鉄で養われた体ですから弁慶は元気そのもの。子どもの時から乱暴ばかりするので、とうとう無人島に捨てられますが、夜な夜なやって来る父の天狗から学問や兵法を学び、ムサシという遊びをしたので、後に武蔵坊と名乗るのだ、とか、この島から脱出するのに、毎日着物の袖に砂を入れて海に流し、海中に道を作った。その島が松江の野原町沖の弁慶島だ、とか、まあどひょうし気な話がなんぼでも残っとります。
その後、鰐渕寺などで修行したと言われますが、その頃大山寺だか倉吉の大日寺だかの釣り鐘を、鰐渕寺に一晩で担いで帰ってしまった、とか倉吉の大原には、侍に投げ付けたという弁慶岩・足跡岩が語られていますし、大山寺の霊雲閣には、弁慶の書状というものが並べてあります。
米子に伝わる弁慶伝説の一つは、尾高の大神山神社の昔の社地、福万原・二宮屋敷跡に、弁慶の腰掛岩というのがありました。彼が大山に往復した時、腰を掛けて休んだ岩だそうです。
もう一つは、湊山公園の中の日本庭園にあります。そこには昔、清洞寺という寺があって、清洞寺岩と言われる大きな石が数個あります。この大石は、弁慶が出雲から投げた石で、その昔は弁慶石と言ったそうです。
夏になるとこの石を飛び込み台にして泳いだ、と語られる人は沢山おられます。時には、あの世への飛び込み台になったとか。今では想像もできませんが。
弁慶が出雲から投げたと言われる湊山公園の日本庭園にある大石
平成11年7月号掲載
掲載日:2011年3月18日