芋塚さんと名月

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芋塚さんと名月
芋塚さんと名月

江戸幕府に井戸平左衛門正明という役人がいました。彼の役は今で言えぱ大蔵省の主計官で、優秀な役人でした。還暦を機に退職しましたが、彼の才能を惜しむ上役が、彼に幕府直轄地の石見銀山代官にならぬか、ともちかけました。
正明は、年でもあり断れぱ断れたのですが、彼は江戸から外に出て暮らしたことがなかったので、地方の人の生活ぶりを知るも良いと思って代官を承知しました。 享保16年(1731)夏のことです。
正明は、江戸では想像もしなかった地方の暮らしの厳しさに驚きました。折りもおり、享保の飢きんの最中でした。彼は持参した財産を全部出し、分限者からも義援金を募って、その年は何とか越しました。
翌年も、イナゴやウンカの異常発生で飢きんは更にひどく、見るに見兼ねた彼は、ついに幕府に無断で幕府の米蔵を開け、餓死寸前の領民を救いました。
一方、石見の荒地でも出来る米に代わる作物はないものか、と考えていた彼は、寺に参拝の折り、さつま芋の話を聞き、これだ、と膝を打ち、早速その年(享保17年)の内に苦心して芋苗を入手しました。が、苗はほとんど枯れ、わずかに一苗だけ活き、これが石見に拡がりました。
石見から弓浜部に芋が入ったのは、それから50年後といいます。
やせた砂地に良く出来る芋は、その後に来た度々の飢きんで何人の命を救ったことか。
しかし正明は、幕府の蔵を無断で開けた罪によって職を解かれ、笠岡で自害したとも、病死したともいいます。享保18年5月26日。代官になってわずかに1年8ヶ月後のことです。

芋塚は、彼への報恩碑です。石見から因幡まで海岸砂浜部の村々に建っていて、米子には葭津・和田・富益・夜見にあります。
5日は中秋の名月。「芋名月」とも「芋の誕生」ともいい、本来は里芋を供えて祀る日のようですが、芋塚さんのある村では、さつま芋を塚に供えておられます。
この人がもし代官を断っていれば、安穏な一生が送れたろうに、あたら代官になったばかりに短命に終わった。しかし、その名は永遠に記憶され、祀られる人となった。はて、どちらの生涯が良かったのか。この碑は人の生きかたをも考えさせる碑です。


葭津の任宗寺跡地にある芋塚さんが一番大きな碑です

平成10年10月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。