榎大谷の鍋吉さん
昔、榎原(尚徳地区)の大谷に貧乏な上に、しょっちゅうけんかしとる夫婦がおりましたそうな。あんまりけんかをするもんで、村の人は「あの夫婦は火の性と水の性の生まれで、それで気が合わんので、けんかばっかりしとうだで」とうわさしとったそうです。
かわいそうなのは、この夫婦の間に生まれた子で。この子は優しい子で、親がけんかする度に小さい胸を痛めとりました。「父と母が、火と水の性で気が合わんでけんかばっかりするんなら、おらはなべ(鍋)になって火と水の間におれば、水も湯となって冷たい心も温めるだろう、燃える火もやがてはおきになって落ち着き、仲良くしてくれるだろう」と名前も鍋吉に変えて、健気にも両親の間に立って気を遣っていたそうです。この子のお陰で、さしものけんかもおいおいと減ったそうです。
鍋吉の孝行ぶりは村人も感心するほどで、年老いて少しぼけて寝込んだ父親には、赤ん坊をあやすように機嫌をとり、かゆい所に手の届く看病をしたのですが、村祭りの日亡くなられたそうで。鍋吉の嘆き悲しむ声が村中に響いて、この年の村祭りは鍋吉の気持ちを思って静かに行った、といいます。
鍋吉は母親に対しても、孝行の限りを尽くしました。 母親は芝居見物が大好きでした。この辺で芝居興行が許されとるのは、安養寺領の山市場(福市地内)だけでしたので、鍋吉は苦労しては銭を算段して、その度に母を背負って榎原から山市場まで行っとりました。
その日は急に思い立って、芝居見物をしたい、と母が言い出したもんで、鍋吉は銭が一文もなかったけど、母を背負うて1キロほど行って、草上に母を降ろして休ませ、とんで帰って今度は、薪を背負うて来るとそこに薪を降ろし、次に休んでいる母を背負うてまた1キロ行って降ろし、あと戻りしてまた薪を運ぶ。これを繰り返して母と薪を山市場に運び、薪をそこで売って、やっと木戸銭をつくって母に芝居を見せたそうですと。後になって、芝居小屋の人もそのことを知ってからは、鍋吉からは木戸銭を取らなかったといいます。そげな親孝行な人が江戸時代の榎大谷にはいたそうですと。
15日は「敬老の日」。
米子市南部の尚徳地区にある榎原の大谷地内。山合いにあるのどかな農村地帯です。
平成10年9月号掲載
掲載日:2011年3月18日