横綱を倒した和田の力士
前場所の大相撲は、横綱がよう転んで面白い場所でした。転ぶ、といえば米子にも横綱(1) を転ばせた力士がいたんですよ。
江戸の昔には、有力な藩はお抱え力士をもっていました。鳥取藩では大関両国梶之助(2) (両国とは因幡伯耆両国のことだそうですよ)とか、松江藩では何といっても横綱雷電為右衛門。お抱えにならない力士も大勢いました。和田出身の平石(3) 七太夫と、その従兄弟の山颪源吾もそうでした(4)。
ある年、大阪で横綱雷電と山颪が対戦することになりました。山颪は雷電に何としても勝ちたい。そこで従兄(5) の平石に相談をかけました。
平石は「かんたが逆立ちしても勝てる相手ではない、が、どげでも勝ちたいなら、仕切り直しを繰り返すことだ。その内横綱の足のどっちかがけいれんを起こす。その時立って反対側の足を取れ」と教えました。
昔は、仕切りの制限時間はなかったから、山颪は教えられた通り、仕切り直しを繰り返して48回目、相手の右足がけいれんするのを見た彼は、さっと立つと同時にパッと横綱の左足を取った。さすがの雷電もたまらずひっくり返ってしまった
まさかの雷電か無名の山颪に負けたので、観衆は大喜び。座布団は飛ぶは歓声は挙がるはで、山颪は大喝采を浴びました。けど、収まらんのは雷電の弟子たち。山颪は彼等につけねらわれだしたので、こっそりと九州に逃れた(6) そうです。
九州では身分を隠して、商店で働いていました。ある日、神社の奉納相撲を見に行き、取り口を批評しとったら、それを聞いて怒った力士から対戦を申し込まれ、やむなく土俵に上がり、相手を次々投げ飛ばしてしまいました。そこで彼は実力を見込まれ、指導者となって多くの力士を育てたそうです。
まじめで明るい彼は、人々に惜しまれ故郷に帰りましたが、その折り、店の主人から、一本の掛け軸をもらいました(7) 。これが和田の釣舩神社の基になった、といわれています。
平石と山颪の墓碑をかぜの時に拝むと治るそうですよ。なぜかって、そりゃあんた関取(咳取り)の碑だもの。

和田町にある力士「平石七太夫の墓」(左)と「山颪源吾の墓」(右)
平成10年7月号掲載
(注):この民話の内容については、次の指摘を受けています。
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「横綱」 … 雷電為右衛門の最高位は大関
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鳥取藩が両国梶之助を抱えていた確証の有無は不明。
(紀州藩が両国梶之助を抱えていた確証記事はある。)
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平石は「ひらいわ」と読む。
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平石は丸亀藩京極氏の抱え力士で、丸亀市に墓碑も現存する。
山颪は初め岡山藩の抱えであったが、後、鳥取藩の抱えに変わった。
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平石が7歳(又は8歳)年下。「従兄」ではなく、「従弟」
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相模諸国和帳(雷電の旅日記的メモ:通称「雷電日記」)の中に、寛政8年(1796)7月の京都場所7日目の山颪と雷電の取組がもめたとあるが、その後も山颪は番付に載り続けており、九州へ逃れてはいない。
山颪の江戸場所初土俵は天明2年(1782)10月場所である。その後、寛政7年(1795)8月大坂場所西前頭5枚目に載るまでの間の所在が曖昧であり、仮に、九州へ行っていた時期があるとすれば、この時期であろう。
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釣船神社は、寛政2年(1790)頃から、江戸八丁堀(現在は杉並区)に祀(まつ)られたと伝わる。
山颪は、寛政11年(1799)11月から文化4年(1807)11月まで9年連続で江戸の場所に出場しているから、この間に当神社の護符をもらって帰ったものと思われる。
掲載日:2011年3月18日