日下 の赤穂浪士の墓
師走に入ると、14日の赤穂浪士の打入りに合わせて、毎年テレビが「忠臣蔵」をしますが…。300年も前の事件なのに、人気があるんでしょうなあ。
米子と赤穂。何の関係もないように思われますが、なかなかどうして。
一つは、赤穂四十七士の主役・大石蔵之助のお母さんは、元和3年(1617)から15年間米子城主だった池田由成の娘、ということです。湊山公園に残る大五輪塔が、今に池田氏の来米を語っています。
以上は事実。 これからは言い伝えですよ。
義士全員が切腹で赤穂事件は決着しましたが、その年の元禄16年(1703)のことです。日下(県地区)の瑞仙寺の門前に、みすぼらしい男が立って「わしは病気で体が動かない。数日泊めてもらえまいか」と頼んだそうです。和尚さんは「ゆっくり休んで行きなさい」と言って、布団や食事を出してやりました。
数日が経って、男はすっかり元気になったので、和尚さんに礼を言って寺の門を出たそうです。その途端、彼は背負っていたこも包みを降ろし、中から刀を取り出すや否や、アッと言う間に腹をかき切ってしまいました。和尚さん始め見送りに出ていた人は、驚くまいことか。いやはや大騒ぎになりました。
江戸の昔でも、人が死ねば役所に届けねばなりません。ましてや、割腹自殺など異常死の場合はなおさらです。どこの誰だか知らなんだので、慌てて男の包みを解いて見ましたら、この男は、父と兄が赤穂義士・松村喜兵衛秀直、同三太夫高直の次男・政右衛門ということが分かりました。それと自分の戒名「刃山道剣信男」が出てきましたので、寺ではそれを石に刻んで、ねんごろに法要をしてやったそうです。後の火事でその書類は焼け、墓も埋めてあったそうですが、墓は掘り出し再建されました。
「この話、本当かも」と思わせるのは、彼の戒名で。 義士の戒名が全て「刃○○剣信士」とあるのに、あまりにも似ているからです。 義士の行動は世間から喝采されましたが、残りの多くの藩士は浪々の身となって、全国に流れたわけで、中にはこのような悲惨な最後をたどった人もいたのでしようなあ。
日下の瑞仙寺境内にある墓石
平成9年12月号掲載
掲載日:2011年3月18日