年号
(西暦) |
できごと
|
応仁元年
(1467年)
|
このころ、山名教之の配下 山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたという |
文明2年
(1470年)
|
伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定に逆襲され退いて、米子城にこもる(出雲私史) |
文明3年
(1471年)
|
山名之定 米子城を守る |
永正10年
(1513年)
|
出雲の尼子経久、このころから米子城などをしばしば攻める |
大永4年
(1524年)
|
尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主 行松正盛は城を去る(伯耆民談記)
|
永禄5年
(1562年)
|
このころから米子城などは毛利氏によって制圧される
このころ、米子城主は山名秀之か
|
元亀2年
(1571年)
|
尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛が米子城を攻め、城下を焼き打ち
米子城主は福頼元秀
|
天正9年
(1581年)
|
古曳吉種がこのころから米子城主(「伯耆民談記」では永禄12年から)
|
天正19年
(1591年)
|
出雲・伯耆の領主 吉川広家が米子湊山に築城開始
城主 古曳吉種、築城奉行 祖式九右衛門
|
文禄元年
(1592年)
|
吉川広家が古曳吉種とともに朝鮮役に従軍
古曳吉種はこの年、戦歿
|
慶長3年
(1598年)
|
吉川広家 富田城に帰り、湊山築城を監督
米子港・深浦港整備も始まる
|
慶長5年
(1600年)
|
関ヶ原戦いの結果、吉川広家は周防国岩国へ転封
駿河国府中城主 中村一忠が伯耆国領主となる
この年までに、米子城工事は7割ぐらい進行(戸田幸太夫覚書)
|
慶長6年
(1601年)
|
日野郡二部村理兵衛(足羽氏)に、日野川川船船頭を命じ、用材運搬と川浚人夫の差配をさせる
|
慶長7年
(1602年)
|
この年、中村一忠が尾高城から米子城に移る |
慶長8年
(1603年)
|
11月14日、中村一忠が老職横田内膳を誅殺
横田の家臣ら反抗し、翌日、出雲富田城主 堀尾吉晴の応援で鎮定(米子城騒動)
|
慶長9年
(1604年)
|
幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政とし、君側の安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にする
|
慶長14年
(1609年)
|
5月11日、中村一忠20歳で急死
中村家断絶、城地収公に決まる
8月、監使として朝比奈源六ら派遣
城請け取り役 古田大膳太夫重治、一柳監物直盛を派遣
10月、西尾豊後守光教ら3人を米子城在番に任命
|
慶長15年
(1610年)
|
伯耆国会見・汗入郡6万石領主として、美濃国黒野城主 加藤貞泰の転封を発令 |
元和元年
(1615年)
|
幕府が一国一城令を発したが、米子城保存と決まる |
元和3年
(1617年)
|
加藤貞泰、伊予国大洲に転封
因伯の領主となった池田光政の一族、池田由之が米子城預り(3万2千石)となる
城主交代監視役として、幕府から阿部四郎五郎を派遣
|
元和4年
(1618年)
|
池田由之、死亡
子息 由成が米子城預りとなる
|
寛永9年
(1632年)
|
池田光仲が因伯の領主になる
家老で下津井城主の荒尾成利が米子城預りとなり、成利の弟 成政を米子につかわし、城の管理をさせる
|
承応元年
(1652年)
|
荒尾成利が隠居し、2代成直 米子城預りとなる |
寛文5年
(1665年)
|
堀が埋まる害があるため、米子城の内堀に柴積み船の入ることを禁止 |
寛永7年
(1667年)
|
米子城西北部外曲輪修理
|
寛永12年
(1672年)
|
荒尾成直が米子城に入り、当年凶作の訴えを聞く |
寛永13年
(1673年)
|
城下侍屋敷の空家について、荒尾氏が米子町奉行に命じて適当に処分することを許可 |
延宝7年
(1679年)
|
荒尾成政 没する
3代成重が米子城預りとなる
|
貞享4年
(1687年)
|
米子蔵奉行三好勘兵衛ら私曲あり、押搦められる |
元禄5年
(1692年)
|
4代目荒尾成倫、米子城預りとなる |
元禄6年
(1693年)
|
落雷などによる天守閣への危険を考慮し、米子城本丸天守近くの蔵に収蔵の火薬類を、内膳丸の角櫓に移す
|
元禄10年
(1697年)
|
大風で米子城本丸四重櫓が1尺5寸ほど傾く |
享保5年
(1720年)
|
米子城米蔵の約半数を大修理
壁・屋根部分に川石を主体として約2万個使用
|
享保8年
(1723年)
|
城下郭内屋敷田31町歩余のうち、水利不足により畑に改めを認められたもの約3分の1 |
享保19年
(1734年)
|
5代目荒尾成昭が米子城預りになる |
延享3年
(1746年)
|
幕府巡見使 小幡亦十郎ら3人、米子を訪れ、荒尾成昭、饗応にあたる |
延享4年
(1747年)
|
6代目荒尾成昌、米子城預りとなる |
寛延元年
(1748年)
|
7代目荒尾成熈、米子城預りとなる |
寛延2年
(1749年)
|
御国目付 榊原八兵衛、伯耆巡行
荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる
|
宝暦11年
(1761年)
|
幕府巡見使 阿部内記ら3人、米子を訪れ、荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる |
宝暦13年
(1763年)
|
米子城修覆米積立法を制定
以後、富豪の負担で1800石を積み立て、利米540石のうち、半額を城郭修覆にあてる
|
安永8年
(1779年)
|
米子川口番所に鉄砲3挺、長柄5本を備える |
天明7年
(1787年)
|
8代目荒尾成尚、米子城預りとなる |
寛政元年
(1789年)
|
幕府巡見使 石尾七兵衛ら3人、米子を訪れ、荒尾成尚、米子城二の丸で饗応にあたる |
寛政8年
(1796年)
|
城下外郭筋堀の埋没を浚渫
以後、しばしば町人富豪に請け負わせる
|
文化3年
(1806年)
|
伊能忠敬 米子町測量第1回
米子城郭内測量を米子役人が拒否する
|
文政元年
(1818年)
|
9代目荒尾成緒、米子城預りとなる
8月に米子入りし、約1ヶ月滞在
|
天保9年
(1838年)
|
幕府巡見使 諏訪縫殿之助ら、米子を訪れる
荒尾成緒、病気のため、家臣の牛尾九郎右衛門らが饗応にあたる
|
天保14年
(1843年)
|
異国船警衛のため、荒尾成裕、父成緒に代わり米子城入りする |
嘉永4年
(1851年)
|
10代目荒尾成裕、米子城預りとなる |
嘉永5年
(1852年)
|
四重櫓とその石垣、富豪鹿島家の負担により大修理される |
慶応3年
(1867年)
|
11代目荒尾成富、米子城預りとなる |
慶応4年
(1868年)
|
2月、山陰道鎮撫総督 西園寺公望と一行数百名、米子城下に入る
このころ、米子城の銃砲類の数、国産ミニエー銃53、御番筒530、種ヶ島10匁玉30、ゲベル銃50、ミネーケル銃60、唐銅砲19、その他 計約800(加賀家控帳)
|
明治2年
(1869年)
|
2月、荒尾氏 自分手政治廃止の発令
町方下吟味役 桑原伊平太らを米子に出張させる
4月、御用人 鵜殿藤一郎以下多数が鳥取より出張し、実権引渡しと治安にあたる
5月、朝廷より米子城返上の命令あり
8月、米子城を藩庁に引き渡す
10月、荒尾成富、家督を成文に譲る
|
明治5年
(1872年)
|
米子城山が、士族 小倉直人らに払い下げとなる |
明治6年
(1873年)
|
城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される
(天守などは尾高町 山本新助が購入)
|
明治25年
(1892年)
|
このころ、湊山と飯山の北側は荒尾政成の所有地、飯山南側と湊山本丸は小倉直人が所有、湊山西面は児島喜平が所有
これを米子町に売却し、売却金半額を町に寄付する話、進展せず
その後、数年で全山ほとんど坂口平兵衛の所有となる
|
明治35年
(1902年)
|
城山下の乳業家原弘業が地主 坂口平兵衛に相談し、城山本丸を整備して弘楽園とし、茶亭富士見亭を建て、うば団子を名物とする
|