史跡米子城跡発掘調査現地説明会を開催しました(平成29年4月)

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史跡米子城跡発掘調査現地説明会を開催しました(平成29年4月)
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平成29年4月22日(土曜日)に、米子城跡発掘調査現地説明会を開催しました。
米子市教育委員会では、米子城跡整備に向けた調査の一環として、平成27年度から史跡内の発掘調査を実施しています。平成28年度は、絵図に描かれている「登り石垣」と考えられる箇所について、その実態を解明するための発掘調査を実施しました。
このたびの説明会には約130人の参加があり、担当学芸員の説明を聞きながら発掘調査の現場を見学し、米子城跡への理解を深めました。

平成28年度の発掘調査について

米子城絵図には、湊山山頂部の本丸遠見櫓(やぐら)から内膳丸にかけて、「登り石垣」と思われるものが描かれています。「登り石垣」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)時に秀吉軍が朝鮮半島南岸に築いた倭城(わじょう)に多く用いられた構造物で、城域の遮断線や山上と山麓の一体化、港湾防御などを目的として築かれたものです。踏査により、「登り石垣」の存在については推定されていましたが、実態はよくわかっていませんでした。

発掘調査の結果、絵図に描かれている石垣状のものは「登り石垣」と確認でき、絵図と同じ場所に遺存していることがわかりました。その構造は、天守のある湊山と内膳丸のある丸山を結ぶ尾根の稜線を利用し、西側(中海側)の岩盤をL字状に削って石垣を積んでいます。また、石垣東側は土塁を構築して高く作られており、湊山の地形をうまく利用して効率的に作られています。
米子城の築城を開始した吉川広家は朝鮮出兵に参加しており、米子城築城に際して、豊臣秀吉軍が朝鮮半島南岸に築いた倭城に多用された「登り石垣」をとり入れた可能性が考えられます。

今回の発掘調査から、米子城は天守を中心に尾根や谷の自然地形を活かした防御構造をもつ戦国時代的な城であり、築城当初は、中海側からの防御を主眼におく海城的な性格をもつ城であったことがわかってきました。

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資料

 リンク・新しいウィンドウで開きます 現地説明会資料PDF 1.90メガバイト)

掲載日:2017年4月27日