水道記念館の横に池を挟んで建つ記念碑は伊藤正文氏の設計で大正14年に建設されました。
(伊藤氏は早稲田大学で佐藤功一氏(旧米子市庁舎、現山陰歴史館を設計)に学びました)
塔状の記念碑は花崗岩を貼り合わせた高さ7メートルの鉄筋コンクリート造です。四面にアーチの装飾を施した矩形の土台に円筒をのせ、相輪状の円盤を先端に重ねています。さらに円筒には6片の石材が花弁状に取り巻いており、ロマンチックな造形でまとめられています。また、土台のアーチ部分の扁額には、時の内閣総理大臣若槻礼次郎をはじめ、水道事業に携わった人々が名を連ねています。
米子における水道の創設期を象徴する建造物で、平成13年(2001)8月には隣接する水道記念館、水神社と共に、国の登録有形文化財として登録されました。
創設当初の記念碑(左)と車尾ポンプ場(現:水道記念館)(右)
記念碑
創設記念碑 |
正面に刻まれた碑文 |
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北側
(正面)
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「源泉混々」の文字は当時の若槻総理大臣による筆です。碑文は東京女子師範学校教授細田謙蔵先生(倉吉市出身)の撰になります。また、碑文の現代語訳は下に掲載しています。
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南側 |
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水道布設事業の尽力者が書かれています。
鳥取県知事 白石佑吉
衆議院議員 三好榮次郎、坂口豊蔵
町長 西尾常彦
助役 堀江龍一郎
県会議員 遠藤光徳、雑賀啓次郎、大谷誠夫
顧問 和田忠治
技師 貝塚正、金澤力太郎
記念碑設計者 伊藤正文
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西側 |
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水道創設の費用について掲載しています。
水道工費総額 金62万円
国庫補助 金17万5千円
県費補助 金14万円
国や県からの補助金だけでは賄うことができず、多くの方ら寄付をしていただきました。ここには寄付者の氏名、法人名と金額が書かれています。
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東側 |
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水道を布設するにあたり、米子町議会では満場一致で賛成を得ました。ここには当時の町会議員44名の氏名が伊呂波(いろは)順で書かれています。
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碑文現代語訳
鳥取県の伯耆に米子という町がある。米子という土地は、四方から人や物が集まり、住んでいる人は数余万である。かつ海や山々からの恵みは豊富で素晴らしく、山陰の中でも稀有な場所であるといえる。しかしながら海に面した土地は良水を得にくく、些細なことで井戸の水はすぐ濁り、飲用に適した水を得るのは難しい状況だった。さらに、防火対策も行きわたっていなかった。米子の町が未だに発展しきれていないのは、このためである。住民はこのことを長い間悩んでいた。
米子の西尾常彦町長はこのことに着目し、水道を布設して住民を救済しようと、町議会に提案したところ、議員全員の賛成議決を得た。その後、専門技術者に水道布設に向けた調査及び計画に着手させ、その結果をもとに国の内務省に水道布設の認可申請をした。申請をした大正12(1923)年、ちょうど関東大震災にみまわれ、社会情勢が大いに乱れたこともあり、翌年の大正13(1924)年、ようやく申請の認可が下りたのである。
このような経緯により、日野川河畔の車尾古地地区の中から水源を定め、取水井戸2井、筒のように掘り下げた貯水池1池、電気ポンプ2台、ディーゼル式ポンプ1台を備え、送水するために使用した。
鉄管は3,000尺(約900メートル)埋設し、観音寺山頂上の配水池に送水した。また、米子町内の配水管も鉄管で作り、水を全町中のすみずみに流下させたのである。その長さにして六里(約24キロメートル)ほどであった。こうしてついに大正15(1926)年7月、町中に清浄で豊富な水がさかんに流れる水道が竣工したのである。
総工費は65万円(現在の約3億8,600万円)を要し、その多くは借入金であったが、国と県の補助や強い志を持った尽力者、法人からの寄附により、多額の税金を求めることはなく済んだのである。
水道ができたことで伝染病を予防し、町民の命を守り、火災を防ぐことで、広く商工業などに普及した。以後、町民はますます幸せとなり、町はますます繁栄し、まさしくさらに大きな町に発展を遂げるであろう。
水道はすでに完成した。町民は非常に喜んでおり、碑を建造してこれまでの功績を記し、後世に引き継がれることを願っている。私は「西尾町長がその率先力をもって、米子町の繁栄の一端を拓いたのだ。その功績は言うまでもなく埋もれさせてはいけない。また、町会議員が一致団結して賛成したその功績もまた埋もれさせてはいけない。そもそも資金がなくては事業を成すことはできない。さらに国や県の補助や、高い志を持った尽力者や法人の寄附による功績は何よりも忘れてはならない。町民がその功績を思い水道を不朽のものにしたいと願うのは当然である。古(いにしえ)の人も言っていたではないか。『初めはだれでも計画を立てて一所懸命にやるが、それを最後までやりとげる者は少ない。』と。米子の水道の歴史は既に始まった。有終の美を全うするためには、突き進むしかないのである。これは町民の責務であることも理解しなければならない。」という言葉をこの碑に記す。
掲載日:2020年8月6日