近世の米子

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近世の米子

米子城のしゃちほこ(山陰歴史館蔵)
<写真> 米子(じょう) のしゃちほこ
山陰(さんいん)歴史館(ぞう)

江戸(えど)時代が始まると、中村(なかむら) 一忠(かずただ)が米子を治めるようになったんだ。このとき、一忠(かずただ)家来(けらい) の 横田(よこた)内膳正(ないぜんのしょう)村詮(むらあき) が、米子(じょう) を中心とする町の整備(せいび)をすすめて、今日の米子の基礎(きそ)をつくったんだよ。

整備(せいび)された米子の町には、各地からたくさんの人が集まってきて、とてもにぎやかになったんだって。このときから、米子は伯耆(ほうき)の国の政治(せいじ)経済(けいざい)の中心地として 発展(はってん)することになったんだ。

 

米子城跡
<写真> 米子(じょう) (あと)

その後の米子城主は、加藤(かとう) 貞泰(さだやす)池田(いけだ) 由之(よしゆき)と変わり、1632年(寛永9年)からは鳥取(はん)家老(かろう) である荒尾(あらお)氏の一族が、江戸時代の終わりまで、代だい(しろ)をあずかったんだ。

 

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