古代の米子

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古代の米子

岩屋古墳(向山古墳群のひとつ)
<写真> 岩屋(いわや) 古墳(こふん)
向山(むこうやま) 古墳(こふん) (ぐん) のひとつ)

弥生(やよい)時代が終わると、全国で「古墳(こふん)」とよばれる土や石を()った大きなお(はか)がたくさんつくられるようになるんだ。この時代は「古墳(こふん)時代」とよばれて、米子市でもたくさんの古墳(こふん)がつくられたんだ。米子市淀江(よどえ)福岡(ふくおか)にある「 向山(むこうやま) 古墳(こふん) (ぐん) 」には、鳥取県の西部を代表する古墳(こふん)がならんでいて、死者を入れていた部屋も見ることができるんだ。

 

 

上淀廃寺で見つかった仏像のかけら
<写真> 上淀廃寺(かみよどはいじ)で見つかった 仏像(ぶつぞう)のかけら

その後の日本では、奈良(なら)に都がおかれ、国づくりがおこなわれるようになったんだ。
そのなかで、米子のあたりは「伯耆国(ほうきのくに)」という名前が付けられたんだよ。また、この頃には大陸から仏教(ぶっきょう)が伝わってきて、全国にお寺が建てられるようになったんだ。
米子市では、この時代に建てられた「 上淀廃寺(かみよどはいじ) 」とよばれるお寺のあとが見つかっているよ。仏像(ぶつぞう)のかけらや、(ほとけ)様のえがかれたかべのかけらが見つかっていて、全国的にとても有名になったんだよ。

 

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