もう一人の八百比丘尼

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もう一人の八百比丘尼
もう一人の八百比丘尼(びくに)

粟島の八百比丘尼の話は有名で、すでに紹介しましたが(» 第5話)、米子には実はもう1人、800才まで長生きした人がおられます。
敬老の日にちなんで今月はその人の話です。

…寛平という年代(889から898年)の頃のことだったそうな。
彦名の里に八百右衛門という母子二人で暮らす漁師がいた。
彼は大変貧しかったが、真面目によく働いて母に孝養を尽くしていた。
ある日のこと、彼はいつものように中海に船を浮かべ、(かや)島の辺りで網を下ろして漁をしていた。
やがてのことに網を引き上げてみたところ、中に小さいが立派な観音様が入っておられた。彼は驚いてこの観音様を家に持ち帰った。それからは母と一緒に線香を上げて朝に夕に拝んでいた。
ところがある日、その漁師の家から火が出て家は丸焼け。家財道具、といってもたいした物はなかったが、みんな焼けてしもうた。
しまった、あの観音様をお助けしなくては、と母子は慌てて焼け跡に入った。が、なんぼ捜いてもどこにも居られん。そげだなあ、あの火じゃあ助かりようがない、焼けてしまわれたか。
がっかりして二人が浜辺に出てみたところ、アラマア不思議なことに観音様は1人で浜辺に出て、ちょこんと座って居られた。母子は大いに喜んだが、こんな所に観音様を居いては恐れ多い、と自分らの家はさておいて、まず観音様のお堂を建てて、その中に安置した。
ところが運の悪いことは重なるもんで、その夜にまた火が出てお堂も焼けてしもうた。
これじゃあ観音様をお守りすることは出来ん、と思って母子はその観音様を灘町の吉祥院にお預けした。
吉祥院の坊さんは大変に喜ばれ、京都から仏師を呼んで大きな仏様を造らせ、その仏様の胎内にこの観音様を納め、お寺の本尊とされたそうだ。

ところで漁師の母子はその後どうなったかって?

母は髪を下ろして尼さんになり、名も妙丹に変えて吉祥院で勤めていたが、やがて母子共に若狭の国(いまの福井県)に行って、800才まで長生きして、彼の国の土になられたそうですと…


灘町の吉祥院本堂

平成14年9月号掲載

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掲載日:2011年3月22日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。