見よ飛行機の高く飛べるを

本文にジャンプします
見よ飛行機の高く飛べるを
見よ飛行機の高く飛べるを

『大山寺縁起』は書きます。

大山が開かれた頃、仙人が山頂で千日の修行をした時のこと、世にも不思議な事が起こり、それを見に来ていた村人が夜中に精霊に蹴られ、海を越えて美保関まで飛ばされた…と。

同時多発テロでビルに突入する飛行機の鮮烈な映像を見て1年になります。
今、飛行機は先端技術を詰め込み、空を切り裂いて飛ぶ凶器のようですが、その昔、飛行機を造ろうと思った人々は、ただ鳥のようにのんびりと空を舞うことを夢みた空想家だったはずです。
「見よ今日もかの青空に飛行機の高く飛べるを」と歌った啄木もその1人でしょう。

そんな頃の大正5年(1916)8月27日、米子の空に初めて飛行機が飛びました。
ライト兄弟の成功からわずか13年後のことです。

この日、南の日野街道には暗いうちから米子をめざして歩く人の群れがあり、東は国鉄倉吉線(廃線)を上井(現倉吉)駅経由で米子まで臨時列車が走り、西は荒島-米子駅間往復2割引切符が出、汽船も負けじと安来-米子間の船賃を大割引して客を運びました。その結果、臨時の飛行場となった皆生海岸(現海浜公園辺りの海岸)には飛行場内に3万人、場外に2万人が群がりました。入場料は大人20銭・子ども10銭でした。
飛行機は午前と午後1回づつ飛び、大観衆を湧かせました。
新聞は報じます。「…大山に向かって滑走することわずかに27.8メートルにして離陸し、約400メートルの高度に上がり日野川尻に飛びたり」その後、左折して日本海を北より西に円を描き後藤駅の上空から角盤町通り・勝田の森の上を飛び「飛行場を3周して波上飛行を試み、巧妙に着陸せり」と。
歌でも民謡・新磯節の曲に合わせてこう歌われました。

♪頃は大正五年の夏よ、その名も勇まし(つるぎ)号、福原の空を飛ぶ、ハンドル持つのは井上中尉

それから22年後の昭和13年(1938)三柳に米子飛行場が出来ました。
三柳には東京-京城(現在のソウル)-新京(現在の長春)を結ぶ国際線の飛行機が飛来していました。三柳は燃料補給が主目的でしたが、ともあれその頃から「米子」の名は国際航路に載っていました。
陸路、海路と共に空路でも米子は交通の要衝であったわけです。

今月はとんだ話でした。


初めて飛行機が飛んだ皆生海岸

平成14年8月号掲載

前のおはなしへ 次のおはなしへ
掲載日:2011年3月22日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。