お船塚

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お船塚
お船塚

東郷町に伯耆一宮の倭文(しどり)神社がありますが、この神社のご祭神の1人に安産の神として崇められる下照姫(したてるひめ)命がおられます。
この神が出雲から海路を東郷に来られた時、乗られた船が石になって東郷湖畔に残っているそうです。

米子にも同じような話が伝わっています。

宗像(むなかた)にある宗形神社は、延喜年間(901から922年)に定められた法令(「延喜式」)に書かれたほどの由緒ある神社(「式内社」といい、尾高の大神山神社も式内社)です。
宗形神社のご祭神は、九州の宗像大社と同じく田心姫(たぎりひめ)命・湍津姫(たぎつひめ)命・市杵島姫(いちきしまひめ)命の3人の女の神様です。
この3人の女神が九州から米子に来られるのに、陸路ではなく日本海沿いに船で来られたそうです。冬の荒海を越えてではなく、おそらく暖かく波穏やかな、夏のこの季節に来られたものと思います。その頃は米子も宗像のあたりまで入海だったようで、神社の近く、今の長砂と宗像の境で神様方は船を降りられました。
その船が、長い年月の間に石になったと伝えています。
石になった船があった場所を「お船塚」とか「(かや)島」といって江戸から明治の頃までは田の中に、一抱えほどの船石を囲んで茅の生い茂る100坪ほどの小さな丘だったそうです。
昭和の初期には、石の周りに葦の生い茂る一坪ばかりの砂地になっておりました。
それが終戦後、砂地は切り崩され、肝心の船石は埋められ、残念ながら今は見ることができません。

この伝説は、古代の米子についていろいろ教えてくれそうです。

まず、古代の米子には、宗像神を信仰する九州の人が大勢移住して来たであろうこと。
移住して来た年代は、地球の温暖期で氷河が溶けだし、海が広がっていた時だったであろうこと。
少なくとも延喜年間よりかなり以前のことだった。といえば、それも伝説と笑われますかナ。


その昔、船塚があったと伝えられるあたり
(写真の石は船塚ではありません)

平成14年7月号掲載

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掲載日:2011年3月22日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。