江戸時代のがいな祭

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江戸時代のがいな祭
 江戸時代のがいな祭

天から降るものが雨や雪なら何でもないのですが、幕末には伊勢神宮のお礼が降ってきて、大騒ぎになったことはよく知られた話です。
米子でも、幕末よりもずっと前に天から一枚の紙が降ってきたそうです。その話はこうです。

江戸時代、米子城主荒尾氏の家来に柘植(後に織田)という侍がいました。その家は、今の大学病院構内にありました。ある日、ご主人が庭を散歩していたところ、白い紙切れが天から降ってきて、庭木の梢にひっかかったそうです。 何だろう、と思って木に登ってそれを採ってみると、何とそれは菅原道真公の直筆の紙片でした。これは恐れ多いことだ、といって柘植さんは庭に小さな祠を建て、学問の神様・天満宮としてその紙を納めて祀られました。
柘植家の屋敷神であったこの天満宮は、元禄5年(1692)加茂川にかかる天神橋の道向う、天神町に遷座され、そこで祀られていましたが、昭和37年に再び遷座され、今は加茂町の賀茂神社に合祀されています。
江戸の昔、天満宮の祭日は旧暦6月25日。現在では学校が夏休みに入るころになります。宵祭りから米子の町内の寺子屋からはのぼりや燈明が寄進され「尺寸の地も残さず」それらが立ったといいます。25日には神輿が米子の町内を残らず練り回った後、深浦の祇園神社前から船に神輿を移し錦海に出ました。船中でも神事が行われました。人々はこの御座船を取り囲むように、それぞれ船を漕ぎ出し、祭りに参加を口実に夕涼みをし、飲めや歌えの大騒ぎ。舟と舟の間を水澄ましのように飲食を商う舟が行き交い、琴・三味線の音は海風に乗って岸辺に響く。岸辺でも、見物がてら飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。神輿は真夜中になって内町の京橋際から上陸され、天神町の神社に帰られました。

これを当時の人は「天満の涼み」といったそうです。これぞ、がいな祭のルーツでは。


天満宮が合祀されている賀茂神社 本殿

平成13年7月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

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掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。