蝉丸さんの百人一首

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蝉丸さんの百人一首
蝉丸(せみまる) さんの百人一首

今年は1月の末に旧暦の正月に入りましたが、正直言いますと、年寄りにはいまだに旧暦のほうが季節感が合っていて良いです。旧正月なら雪も積もり空気も澄んでいて本当に年が改まった感じがしたもんです。学校は旧正月にも冬休みがあって、雪の中を登校せんでいいからうれしかった。 かるた、双六、百人一首と遊ぴには事欠きませんでした。

…米子がまだ砂浜の中にある寒村だった頃のことです。深編笠をかぶって背には楽器の琵琶を負い、眼が見えないらしく杖にすがった旅人が肩で息をしながらやって来て、砂浜にべたをこいて突っ込んでしまったそうです。そこへ通りかかった村人が優しく、「お前さんどげしなはっただ?」と聞きました。するとその人は苦しそうに「わしは眼が不自由な上に不治の病に冒されていて、何とか治りたい一心で全国の神仏を拝んで行脚してきた者だが、どうも此処で終わりそうだ。わしが死んだら此処に祠を建ててくれ。 親切な村人の為に眼病をはじめわしが病気で苦しんだ分、村人が病気にならんように守ってやるから。」 といって息絶えたそうな。村人は旅人の持ち物から、この人は百人一首の歌人の一人、有名な蝉丸さんだと解ったので、遺言どおり祠を建て蝉丸神社として祭ったそうですと…

それが博労町3丁目にある蝉丸神社(近年夜見にも分霊されました。)で、実際、江戸の頃からはやりだし、コロリと死ぬと恐れられた虎烈刺(コレラ)が広がったとき、他の村では虎烈刺の「虎」に勝つのは「狼」(おおかみ)だ、と狼を神使いとする船上神社や備中木野山神社をあわてて勧請して、怖いコレラの禍から、免れようとしましたが、蝉丸神社周辺の人は蝉丸さんのお蔭で、誰一人コレラにかからなかったそうです。それがそれ、蝉丸さんの歌、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の最初の「これやこの」が「コレラ来ぬ」(もう来た)とコレラ菌には聞こえたので、この町に入るのを止めたそうですよ。え?コレラ菌が英語を知っとったら「コレラカム」と聞いただろうって?英語を知らんコレラ菌で良かったですなあ。
旧正月の遊ぴは「百人一首」に限ります。


蝉丸神社(博労町3丁目)には、百人一首の歌人蝉丸さんが祭られている。

平成10年2月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

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掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。