キサイさん(別所)

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キサイさん(別所)
キサイさん(別所)

安永2年(1773)福彦右衛門(ふくひこうえもん)が書いた「伯路紀草稿(はくろきそうこう)」という本に載っている話です。

…長者原村に、木ノ森長者(しん)甲斐六兵衛(かいろくべえ)屋敷という跡あり。一町(約109メートル)四方ばかり、四間(約7.27メートル)四方に築地の井戸あり。駒谷石というあり。
かの長者、馬を乗りかける石とて馬の足跡二つあり。向成屋敷というあり。此所(ここ)より馬の(くら)をこしらえ毎日かの長者が方へ売りに来り候…

長者原には駄屋敷という地名も残っていて、この伝説を本当らしく思わせます。
長者原を文政元年(1818)通った歌人の衣川長秋(きぬがわながあき)は「此所はむかし進何がしの居りし所なりといふ。…此原の道の左右に古墳二つあり。堀の形も残れり。…いかなる御陵にかありけん。里人の支佐似(きさい)といふよしいへり。…」(「田蓑(たみの)の日記)と書いています。
キサイとは妙な名です。「伯耆志」は別所村の項に「久佐伊原。村の東南二町(約218メートル)ばかりの地名にて原中に塚あり。土人(土地の人)クサイ公の塚と呼ぶ…」と書いています。
今は「木才原」という字を当てておられます。今でもそこには古墳の遺構が残っており、この墳墓の石で彫られたと思われる「キサイさん」という地蔵さんが祭られています。
さて長者原の主、紀(進とも)成盛の墓はどこにあるのでしょうか。「紀氏譜記(きしふき)」を見ますと「進貝録兵衛紀成盛長者の廟所は安曇村内別所辻堂といふ処也。その後同慶寺(現:福市)に移す。…」とあります。
このキサイ原に残る古墳こそ、紀長者の墓の跡ではないでしょうか。クサイ公のクはキが(なま)ったと思います。とすればキサイ公は「紀宰公」、キサイ原は「紀祭(紀氏を祭る)原」の意かと思いますが、どうでしょうか。
紀氏は書きましたように、「貝」とか「甲斐(かい)」とかが名についていますが、近年の研究によれば、これは「海」のことで紀氏は海部(あまべ)でもあったといいます。そう言われますと、宗像(むなかた)とか安曇(あずま)など九州系の地名を残す土地は、九州からの渡来人の移住地だったことは間違いありませんし、彼等を海路先導したのがキサイ原に眠る紀氏であった、と考えれば納得できます。その古墳は、あたかも宗像・安曇などを見守るような位置にありますので。
いや、この話クサイ、と思われますかな。


別所にあるキサイさん地蔵と墳墓

平成16年10月号掲載

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掲載日:2011年3月22日

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掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。