米子の寺子屋

本文にジャンプします
米子の寺子屋
米子の寺子屋

新入生のはずんだ声が聞こえてくる月になりました。
歌いながら語られる昔話に、こんなのがありました。

…ノミ(蚤)とシラミ(虱)の話を聞けば、「何とこれからどげして暮らして行こうかいな」
そこでノミが申すには「おいらはお足が(走るのが)早いから、郵便配達いたします」
こんどはシラミが申すには「わたしはお足が遅いので、学校の先生いたします」
そこでノミが言うことにゃ 「お前みたいなノロ助が、学校の先生は勤まるまい」
するとシラミが言うことにゃ 「何を言わしゃるノミさんよ、わたしが背中に付いたなら、どんなショウカラ坊主でもカク(掻く・書く)こた勉強スットコドッコイするわいなぁ」…

米子は「山陰の大阪」と他から言われ自認もしていますが、その言葉の裏には、文化面では一歩劣る、と言われているように聞こえるのはひがみでしょうか。何をもって「文化」というかにも論のあるところでしょうが、例を教育にとれば、米子は他に劣るどころか先進地でした。
江戸時代、鳥取藩内で最初にできた寺子屋は青木の「修徳舎」で、地元の神官・山川氏により元禄年間(1688から1703年)に開かれたといいます。早くから多くの人が読み書きできるようになっていたことがわかります。この修徳舎は、明治になって学区改正のごたごたから、県内初の私立尚徳小学校ともなり、当時の新聞に生徒募集の広告を出すほどの新しさでした。
また東福原にあった「高橋塾」は、親子三代にわたって教育された私塾として有名で、かなり遠くから教えを請うてこの塾の門を叩いたといいます。これらの多くの寺子屋や塾から米子を発展させた人材が続々と出ています。
ところで、高橋塾ではどんな数学の問題を解いていたか、『新修米子市史近世資料編2』をご覧ください。 スットコドッコイかくことになりますぞ。いや答えではなくて頭を、です。なにしろノミとシラミの話から始まっていますのでな。


高橋塾趾の碑(東福原)


かつての修徳舎(現在は神官宅・青木)

平成14年4月号掲載

前のおはなしへ 次のおはなしへ
掲載日:2011年3月22日