米子の中江藤樹

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米子の中江藤樹
米子の中江藤樹

寛永9年(1632)に鳥取藩主と岡山藩主の入れ替わりがありました。この時、幼くして岡山から鳥取藩主となった池田光仲について岡山では

華のようなる勝五郎様をやろうか因幡の雪国に

(勝五郎は、光仲の幼名)

と歌ったそうです。 それに対して鳥取では

雪は降れども因幡はぬくい寒や備前の空っ風

と歌い返したといいます。
厳寒のこの季節になると、鳥取であろうと岡山であろうと、昔は霜やけでまっ赤にはれた手をした人、あかぎれで割れた傷口に黒い練り薬を焼火箸で溶かし込んで働いている人をよく見かけたものでした。
陽明学の開祖で近江聖人といわれた中江藤樹が米子に来たのは池田光仲が鳥取に来るより前の元和2年(1616)藤樹6才の時でした。(一説では元和元年)
「春風いまだ江州に致らざるころ」父母と別れ、自分の後継者として学問をさせるため祖父中江吉長に手を引かれ来ました。
藤樹は祖父の見込んだとおり、よく学び理解も早く、特に文字の立派さは大人を驚かせ、早くから祖父の代筆を務めたと伝えています。
しかし、米子に来てわずか1年(一説ならば2年)で、藤樹は米子城主加藤氏の国替えに従って、祖父ら家臣とともに四国は大洲へと移りました。
伝説では、両親と別れて間もないころ、人一倍親思いだった藤樹は、母が冬の冷水で手が霜やけになって苦しんでいると聞いて、母恋しさもあって、我慢できず急いで近江の生家に見舞いに帰りました。ところが母は、見舞いとはいえ学業中途で帰ってくるとは何事か、といって心を鬼にして家にも上げず我が子を追い帰した、と言われています。とても本当の話とは思えませんが、かつては美談として語られていました。
霜やけにはユキノシタの絞り汁がいい、といって塗った覚えがありますが、藤樹もユキノシタや竹の皮に包まれた練り熊薬を持って故郷に向かったのでしょうか。
藤樹の面影を米子に求めれば、彼が祖父と暮らした家跡に建つ石碑と、その地がかつての就将小学校であった縁で、就将小の児童会を「藤樹会」と称して先哲の遺徳を偲んでいることぐらいでしょうか。
おっと、それから石碑の横と、就将小に植えてある藤の樹は近江の藤樹生家の樹から株分けされたものです。


加茂町2丁目にある中江藤樹の石碑

平成14年2月号掲載

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掲載日:2011年3月22日