感應寺の鐘

本文にジャンプします
メニュー
感應寺の鐘
 感應寺(かんのうじ)の鐘

盆の仏さん迎えには、夕方おがらを焚いて「コナカリ(この明かり)でじいさんもぱあさんもみんなござれよう」と言い、仏さん送りには「コナカリ、じいさんもぱあさんも気い付けて去んないよう。 また来年おいでよう」と言ったもんです。
とすると、盆とはあの世に生きるご先祖さんが家に帰ってきて、この世に生きる子孫の繁栄ぶりを見ながら、あの世の人とこの世の人とが寝食を共にする期間、ということでしょうかなあ。
世の中には不思議なことがあるもんで、死んであの世に行ってしまったと思っていた人が、生き返ってこの世に戻ってきた話があります。

…昔、大工町に一人の鋳物師がおられたそうです。 この人は頼まれて、感應寺(祇園町1丁目)の鐘を鋳ることになって、一生懸命その仕事をしていました。 その最中に急に仕事場で倒れて、そのまんま死んでしまいました。
あんまりの急死だったもんで、てんやわんやで葬式をして、さあ出棺だ、というので泣きながら棺のふたを小石で釘打ちしようとしたその時、棺の中で「アーアッ」と大あくびが聞こえ、死人が眼を開け、手を伸ばしたからみんなはびっくり仰天。
聞けば「いや三途の川は渡ってエンマ様の前に出たんだが、エンマ様は『お前は浮世でしかけた大事な仕事が残っとるはずだ。それをしてから来い』と言って追い返されたんだ。
その時『お前の作っている鐘の中にこれを入れて鋳れぱ良い鐘ができる』と言ってエンマ様から銀の粒をもらった」と言って、握っていた手を拡げて銀粒を見せたので、二度びっくり。
こうして彼は、感應寺の鐘を鋳造したそうですと。エンマ様の予言通り音色のいい名鐘でしたが、残念ながら戦争中に供出させられてしまって、今はありません。
この時のものかどうか分かりませんが、こんな文書が「鳥取藩史・四」に出ています。

「寛文六年(一六六六)
一、米子菅能(感應)寺之鐘再興、当地にて鋳申に付て松ノ木四本入用之由候。跡々より当地寺之鐘鋳之節、右之材木被下由候。・・・」

夢物語と思っていた話に文書なんかが出てきては、せっかくの夢もさめてしまいますがなあ。


祇園町1丁目にある感應寺の山門。この寺は米子城主中村一忠の善提寺です

平成10年8月号掲載

前のおはなしへ 次のおはなしへ
掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。