米子城の歴史

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米子城の歴史

米子城の歴史

米子城は、応仁から文明年間(1467年から1487年)に、山名宗之(やまなむねゆき)によって砦として飯山(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470年)に初めて記述がみられます。

現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591年)に築城を開始しました。しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。
慶長6年(1601年)、伯耆国18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602年)ごろ、米子城は完成したといわれています。
慶長14年(1609年)に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に 会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰(かとうさだやす)が入城しました。この後、近江聖人・中江藤樹(なかえとうじゅ)も米子にやって来ました。
元和3年(1617年)、加藤氏は伊予大洲(いよおおず)へ国替えとなり、因伯領主 池田光政(いけだみつまさ)の一族の池田由之(いけだよしゆき)が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632年)には、池田光仲(いけだみつなか)が因伯領主となり、家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かり1万5千石となりました。以後、明治2年(1869年)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。

明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。
そして明治6年(1873年)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:取り壊される前の米子城
取り壊される前の米子城を撮影した貴重な写真(個人所有)

米子城関係年表

年号
(西暦)

できごと

応仁元年
(1467年)

このころ、山名教之の配下 山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたという

文明2年
(1470年)

伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定に逆襲され退いて、米子城にこもる(出雲私史)

文明3年
(1471年)

山名之定 米子城を守る

永正10年
(1513年)

出雲の尼子経久、このころから米子城などをしばしば攻める

大永4年
(1524年)

尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主 行松正盛は城を去る(伯耆民談記)

永禄5年
(1562年)

このころから米子城などは毛利氏によって制圧される
このころ、米子城主は山名秀之か

元亀2年
(1571年)

尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛が米子城を攻め、城下を焼き打ち
米子城主は福頼元秀

天正9年
(1581年)

古曳吉種がこのころから米子城主
(「伯耆民談記」では永禄12年から)

天正19年
(1591年)

出雲・伯耆の領主 吉川広家が米子湊山に築城開始
城主 古曳吉種、築城奉行 祖式九右衛門

文禄元年
(1592年)

吉川広家が古曳吉種とともに朝鮮役に従軍
古曳吉種はこの年、戦歿

慶長3年
(1598年)

吉川広家 富田城に帰り、湊山築城を監督
米子港・深浦港整備も始まる

慶長5年
(1600年)

関ヶ原戦いの結果、吉川広家は周防国岩国へ転封
駿河国府中城主 中村一忠が伯耆国領主となる
この年までに、米子城工事は7割ぐらい進行(戸田幸太夫覚書)

慶長6年
(1601年)

日野郡二部村理兵衛(足羽氏)に、日野川川船船頭を命じ、用材運搬と川浚人夫の差配をさせる

慶長7年
(1602年)

この年、中村一忠が尾高城から米子城に移る

慶長8年
(1603年)

11月14日、中村一忠が老職横田内膳を誅殺
横田の家臣ら反抗し、翌日、出雲富田城主 堀尾吉晴の応援で鎮定(米子城騒動)

慶長9年
(1604年)

幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政をとし、君側の安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にする

慶長14年
(1609年)

5月11日、中村一忠20歳で急死
中村家断絶、城地収公に決まる
8月、監使として朝比奈源六ら派遣
城請け取り役 古田大膳太夫重治、一柳監物直盛を派遣
10月、西尾豊後守光教ら3人を米子城在番に任命

慶長15年
(1610年)

伯耆国会見・汗入郡6万石領主として、美濃国黒野城主 加藤貞泰の転封を発令

元和元年
(1615年)

幕府が一国一城令を発したが、米子城保存と決まる

元和3年
(1617年)

加藤貞泰、伊予国大洲に転封
因伯の領主となった池田光政の一族、池田由之が米子城預り(3万2千石)となる
城主交代監視役として、幕府から阿部四郎五郎を派遣

元和4年
(1618年)

池田由之、死亡
子息 由成が米子城預りとなる

寛永9年
(1632年)

池田光仲が因伯の領主になる
家老で下津井城主の荒尾成利が米子城預りとなり、成利の弟 成政を米子につかわし、城の管理をさせる

承応元年
(1652年)

荒尾成利が隠居し、2代成直 米子城預りとなる

寛文5年
(1665年)

堀が埋まる害があるため、米子城の内堀に柴積み船の入ることを禁止

寛永7年
(1667年)

米子城西北部外曲輪修理

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます画像:米子城絵図
「寛永七年」の文字がある米子城絵図(鳥取県立博物館蔵)

寛永12年
(1672年)

荒尾成直が米子城に入り、当年凶作の訴えを聞く

寛永13年
(1673年)

城下侍屋敷の空家について、荒尾氏が米子町奉行に命じて適当に処分することを許可

延宝7年
(1679年)

荒尾成政 没する
3代成重が米子城預りとなる

貞享4年
(1687年)

米子蔵奉行三好勘兵衛ら私曲あり、押搦められる

元禄5年
(1692年)

4代目荒尾成倫、米子城預りとなる

元禄6年
(1693年)

落雷などによる天守閣への危険を考慮し、米子城本丸天守近くの蔵に収蔵の火薬類を、内膳丸の角櫓に移す

元禄10年
(1697年)

大風で米子城本丸四重櫓が1尺5寸ほど傾く

享保5年
(1720年)

米子城米蔵の約半数を大修理
壁・屋根部分に川石を主体として約2万個使用

享保8年
(1723年)

城下郭内屋敷田31町歩余のうち、水利不足により畑に改めを認められたもの約3分の1

享保19年
(1734年)

5代目荒尾成昭が米子城預りになる

延享3年
(1746年)

幕府巡見使 小幡亦十郎ら3人、米子を訪れ、荒尾成昭、饗応にあたる

延享4年
(1747年)

6代目荒尾成昌、米子城預りとなる

寛延元年
(1748年)

7代目荒尾成熈、米子城預りとなる

寛延2年
(1749年)

御国目付 榊原八兵衛、伯耆巡行
荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる

宝暦11年
(1761年)

幕府巡見使 阿部内記ら3人、米子を訪れ、荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる

宝暦13年
(1763年)

米子城修覆米積立法を制定
以後、富豪の負担で1800石を積み立て、利米540石のうち、半額を城郭修覆にあてる

安永8年
(1779年)

米子川口番所に鉄砲3挺、長柄5本を備える

天明7年
(1787年)

8代目荒尾成尚、米子城預りとなる

寛政元年
(1789年)

幕府巡見使 石尾七兵衛ら3人、米子を訪れ、荒尾成尚、米子城二の丸で饗応にあたる

寛政8年
(1796年)

城下外郭筋堀の埋没を浚渫
以後、しばしば町人富豪に請け負わせる

文化3年
(1806年)

伊能忠敬 米子町測量第1回
米子城郭内測量を米子役人が拒否する

文政元年
(1818年)

9代目荒尾成緒、米子城預りとなる
8月に米子入りし、約1ヶ月滞在

天保9年
(1838年)

幕府巡見使 諏訪縫殿之助ら、米子を訪れる
荒尾成緒、病気のため、家臣の牛尾九郎右衛門らが饗応にあたる

天保14年
(1843年)

異国船警衛のため、荒尾成裕、父成緒に代わり米子城入りする

嘉永4年
(1851年)

10代目荒尾成裕、米子城預りとなる

嘉永5年
(1852年)

四重櫓とその石垣、富豪鹿島家の負担により大修理される

慶応3年
(1867年)

11代目荒尾成富、米子城預りとなる

慶応4年
(1868年)

2月、山陰道鎮撫総督 西園寺公望と一行数百名、米子城下に入る
このころ、米子城の銃砲類の数、国産ミニエー銃53、御番筒530、種ヶ島10匁玉30、ゲベル銃50、ミネーケル銃60、唐銅砲19、その他 計約800(加賀家控帳)

明治2年
(1869年)

2月、荒尾氏 自分手政治廃止の発令
町方下吟味役 桑原伊平太らを米子に出張させる
4月、御用人 鵜殿藤一郎以下多数が鳥取より出張し、実権引渡しと治安にあたる
5月、朝廷より米子城返上の命令あり
8月、米子城を藩庁に引き渡す
10月、荒尾成富、家督を成文に譲る

明治5年
(1872年)

米子城山が、士族 小倉直人らに払い下げとなる

明治6年
(1873年)

城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される
(天守などは尾高町 山本新助が購入)

明治25年
(1892年)

このころ、湊山と飯山の北側は荒尾政成の所有地、飯山南側と湊山本丸は小倉直人が所有、湊山西面は児島喜平が所有
これを米子町に売却し、売却金半額を町に寄付する話、進展せず
その後、数年で全山ほとんど坂口平兵衛の所有となる

明治35年
(1902年)

城山下の乳業家原弘業が地主 坂口平兵衛に相談し、城山本丸を整備して弘楽園とし、茶亭富士見亭を建て、うば団子を名物とする
掲載日:2011年2月28日