米子城にまつわる史跡

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米子城にまつわる史跡

米子城にまつわる史跡

米子城は、その城跡そのものが国史跡に指定されていますが、そのほかにもゆかりの場所や品が、市によって史跡・文化財に指定されています。

中村一忠墓地、中村一忠主従木像

(祇園町・市指定史跡)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:中村一忠墓地
感応寺にある中村一忠墓地

慶長5年(1600年)、伯耆国18万石の城主として駿河駿府から移ってきた中村一忠は、駿河にあった感応寺を城山の背後に位置するこの地に移し、中村家の菩提寺としました。
一忠は、慶長14年(1609年)に20歳の若さで病死し、跡継ぎがなかったので所領は没収され、家は断絶となりました。
一忠は、生存中、将軍徳川秀忠の一字を許されて、公式には「松平伯耆守忠一」と称しました。戒名は「青龍院殿一融源心大居士」で感応寺裏山の墓域に葬られました。

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:中村一忠主従木像
中村一忠と2人の小姓の木像

後に、一忠に殉死した2人の小姓、垂井勧解由(たるいかげゆ)服部若狭(はっとりわかさ)とともに3人の木像が作られ、墓域の御影堂に安置されました。
明治42年(1903年)、中村一忠300年祭のとき、老朽化した御影堂は壊され、木像は本堂に移されました。
墓域は整備されて新しく「故伯耆守中村一忠公之墓」が建てられ、また、昭和34年(1959年)、350年祭のときに、墓域に五輪塔が建てられました。

横田内膳墓碑と遺品

(寺町・市指定有形文化財)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:横田内膳墓碑
妙興寺にある横田内膳の墓

米子城の出丸「内膳丸」に名を残す横田内膳正村詮( よこたないぜんのしょうむらあき)は、中村一忠の家老で、禄6千石を受けていた人物です。
村詮は、一忠の父、一氏の妹を妻にしたことから、一氏の死後は一忠を後見し、政治の実権を握っていました。
慶長6年(1601年)に駿府から米子へ移封された12歳の一忠に従い、米子城と城下18町と呼ばれる町並みを完成させた功労者で、伯耆一円の政策に腕を振るいました。
しかし、一忠側近のねたみを受け、慶長8年(1603年)11月、城中で誅殺されました。城内は騒然となり、横田一族は一忠に戦いを挑みましたが、敗れて一族は自刃、滅亡しました。このできごとは「横田騒動」、あるいは「米子城騒動」と呼ばれています。

当寺には横田内膳墓碑があり、横田内膳正村詮の画像と、遺品の木杯が所蔵されています。

荒尾家墓所

(博労町・市指定史跡)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:荒尾家墓所
荒尾家代々の墓が並ぶ了春寺の墓地

了春寺は、代々米子城預かりとなった荒尾家の菩提寺です。
お寺の裏には、歴代の墓碑10数基と家臣の献燈が整然と並ぶ荒尾家の墓地があり、近郊では他に類のない偉容を見ることができます。

旧小原家長屋門

(久米町・市指定有形文化財)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:旧小原家長屋門
枡形を入ったところに建つ旧小原家長屋門

現在、市営湊山庭球場となっている米子城二の丸跡の南東側に、米子市で唯一の武家屋敷の建物である小原家長屋門があります。
小原家は、鳥取藩の米子城預かりであった主席家老、荒尾氏の家臣でした。小原家の屋敷は西町にありましたが、長屋門は昭和28年(1953年)に米子市に寄贈され、米子城跡の現在の地に移築保存されました。以後、昭和59年(1984年)までの約30年間、米子市立山陰歴史館として利用されていました。

長屋門とは家臣などを住まわせるため、武家屋敷の前面に長屋を設け、その一部を開けて門とした建物です。
この長屋門は桁行20.38メートル、梁間4.03メートル、木造瓦葺平屋建て入母屋造りで、入口正面に向かって右側に1室、左側に2室あります。左側奥の部屋には、物置用に造られたと思われる屋根裏の中2階があります。窓の部分は出窓づくりの古い造りが残されています。

清洞寺跡

(西町・市指定史跡)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:清洞寺跡
五輪塔が並ぶ清洞寺跡

湊山公園日本庭園の中にある清洞寺跡は、昔、亀島と呼ばれる小島でしたが、今は埋め立てられ、大きな松と岩が残っています。
岩の上には、3基の五輪塔が並びます。
向かって右の五輪塔は、米子の2代城主 加藤貞泰が父 光泰の菩提を弔うため、この島に曹渓院を建て、供養のために作ったものです。
元和3年(1617年)、池田由成が城主になると、由成は父母の供養のため、海禅寺を建立し、2基の五輪塔を作りました。左が父 由之のもので、中央は母のものです。
海禅寺はその後、荒尾氏によって禅源寺と改められ、荒尾家の菩提寺となりました。しかし、元禄の洪水により被害を受け、宝永7年(1710年)博労町に移され、了春寺となりました。
亀島にはその後、荒尾氏の家臣、村河氏が江尾から清洞寺を移して菩提寺としたので、この島が清洞寺岩と呼ばれるようになりました。

米子城(しゃちほこ)

(市指定有形文化財)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:米子城鯱
鹿島家分家に伝わる鯱

5基が現存しています。
そのうち2基は修理以前の米子城の四重櫓に乗っていたもので、他の3基は、嘉永5年(1852年)以降に作られたものです。

江戸時代後期に米子城四重櫓の傷みがひどくなり、藩の命令で米子の富豪、鹿島本家・分家が全額費用を肩代わりして、嘉永5年に石垣を含めた解体修理が行なわれました。その功労に対して、藩主からそれまでの四重櫓に飾られていた鯱が下贈され、鹿島本家・分家に伝えられてきました。

他の3基のうち2基は、修理後の四重櫓に乗せられていたものです。
明治維新後に、米子城は家臣の新国隊(しんこくたい)に払い下げられました。この新国隊編成の責任者であった伊吹市太郎(いぶきいちたろう)が初代の義方小学校長に任じられた際、校舎の屋根に飾ろうと鯱をもらい受けました。
以後、義方小学校で大切に保管されています。

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:米子城鯱
山陰歴史館にある鯱

残りの1基は四重櫓改築の試作品と伝えられ、山陰歴史館で展示しています。
この鯱には、「嘉永五年壬子月日十代目松原仁左衛門(まつばらにざえもん)作之」と刻まれています。

潮止め松

(西町・市指定天然記念物)

画像をクリックすると、新しいウィンドウで大きな画像が開きます写真:潮止め松
湊山公園入口の潮止め松

湊山公園正面入口の左右にあるクロマツの大木で、現在は入口左側に11本、右側に1本の合計12本が残っています。

これらの松は、今から約400年ほど前の江戸時代初め、米子城築城の際に、防潮林として植えられたといわれています。当時は、このあたりが海岸線で、松の向こうには中海が広がっており、潮風から城下を守る目的を果たしました。

潮風を受ける環境で育ったため、やや細身で、幹が内陸側に傾いたものがありますが、長年風雪に耐えてきた姿は、美しく貫禄十分です。
胸高周囲2メートル以上、樹高20メートル以上と推定され、県内では大山参道の並木松と並ぶ名松です。

米子城にまつわる史跡めぐり

米子城にまつわる史跡を地図にしました。
史跡めぐりにお使いください。
(地図をクリックすると、新しいウィンドウでPDFファイルが開きます。)

史跡めぐり地図
PDF 1.49メガバイト)

掲載日:2011年2月28日