米子城の皿屋敷

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米子城の皿屋敷
米子城の皿屋敷

江戸時代、鳥取藩の藩主池田氏は筆頭の家老(鳥取藩では着座といいました)である荒尾氏に米子城と米子町の政治をまかせました。これを「自分手政治」といいました。その頃の話です。

…藩主の池田の殿さんは何を思ったか、幼い若君を養育するように、といって米子の荒尾の殿さんに預けさんしたので、荒尾さんは謹んで承って、丁重に若君を米子にお迎えした。若さんは、大勢のお供を連れて米子城にやってきた。そのお供の中に絶世の美人の腰元がいた。名はお菊。お菊が通りかかると、城内の男たちはみんながみんな目尻を下げ、鼻の下を長くした。中でも一際長くしたのが、あろうことか荒尾の殿さんご本人だった。
なにしろ殿さんだから何でもできる。毎日毎日いろんな口実を作ってはお菊を部屋に呼び、想いのたけを語っては、かき口説く。が、お菊は「私は若さんの腰元としてお城に来ているだけなので」と言うばかりで、殿さんの手を替え品を替えての口説きにも、頑として応じなかったと。
可愛さ余って何とやら、勝手に好きになっていながら、赤っ恥を掻かせられたと思った殿さんは、お菊に家宝の皿を何枚か預けておいて、その中の一枚をこっそり抜き取り隠しておいた。やがてにお菊に預けておいた皿を持って来させ、皿を数えさせると一枚足らない。殿さんは「お菊!皿を割ったか盗んだか!」とわめいて責め立て、とうとうお城の井戸の横に生えた松の木に、お菊を逆さづりにして斬った。お菊は、この卑怯な荒尾の殿さんのやり口を深く恨んで死んだそうな。
その後、荒尾家では不吉な事が続いた。お菊のたたりだ、とうわさしだした。そこでお菊の亡霊を鎮めるために建てられたのが「荒尾荒神」という祠で、近年まで加茂町1丁目にある労働金庫の裏辺にあったが、いまはない…

ご存知「播州(番町)皿屋敷」をまねて語りだされた米子版怪談ですが、現代では一向に怖くありません。それよりも「物価スライド改定」とかいって、減らされた給料や年金を「1マーイ」「2マーイ」とかいって、数えるほうがよっぽど怖くうらめしく、熱い夏が涼しく過ごせそうです。


城山のテニスコート裏にある御殿井戸

平成15年8月号掲載

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掲載日:2011年3月22日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。