一富士

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一富士
一富士

…昔、ある家の親父さんが「年の初めだけえ、物をめいではいけんぞ。一年運が悪くなるけぇ」というとったところが、子どもがつい手を滑らして土瓶を割ってしもうた。親父さんは機嫌が悪うなったが、かかさんが頭のいい人で「ドン(土・鈍)とヒン(瓶・貧)とは投げ捨てて、後に残るが金のツル(弦・蔓)」といってその場を繕わんしたと…

だれでも年の初めは新しい年が良い年であることを願って縁起をかつぎます。その一つが初夢で、それは「一富士二鷹三なすび」といわれます。この言葉は駿河国(現静岡県)のことわざだそうです。
この駿河など5カ国の領主であった徳川家康は、豊臣秀吉と共に小田原の北条氏を攻め滅ぼします(天正18年〔1590〕)が、その時、講談では秀吉・家康が連れ小便をしながらの話に、秀吉は家康に戦功として北条氏の旧領の江戸など関八州を与え、家康の地盤である駿河など5カ国を取り上げてしまいます。家康は内心激しく怒ったが秀吉の力には勝てないので渋々江戸城に移った、と語られます(余談ですが家康の出た後の駿河城主には中村一氏がなりました。 米子城主中村忠一の父です)が、本当でしょうか。といいますのは、戦国の武将は命を的に戦うのですから、よく縁起をかつぎましたから。例えば柴田勝家は、越前北ノ庄の「北」は「敗北」に通じるとして地名を福井に改めます。
殊に家康は、縁起をかつぐ武将だったと聞きます。彼は富士山が見える土地ならば、駿河でも江戸でもどこでも良かったのではと思います。それは、家康にとっては「富士」は「不二」であり「不死」だったからです。富士山が見える所にいる限り、戦いで死ぬことはない、と思っていたと想像します。
東京には今でも富士見坂という地名が点々と残っていますし、江戸城には富士見櫓がありました。富士山の見える坂であり櫓の意味ですが、家康に言わせれば、これは不死身の坂であり櫓ということになります。
米子の冨士見町も、伯耆富士のよく見える町という意味でしょうし、不死身の町というめでたい町名だとも思います。
新世紀が戦いのない平和な世紀であることを願って、先ずは「一富士」の初夢を。


冨士見町から望む大山

平成13年1月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

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  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。