安養寺の歯形栗

本文にジャンプします
メニュー
安養寺の歯形栗
安養寺(あんようじ)歯形栗(はがたぐり)

昔、後醍醐天皇が鎌倉幕府にたて突いて隠岐島に流されなさる時(元弘2年・1332・3月)、流される天皇のお供の中に、天皇の16才になる娘さん(瓊子内親王)が変装して入っていなさったそうです。
一行が米子まで来て、さあこれから船に乗るってえので、も一度お供を調べたところが、天皇の娘さんが居るってことがばれて「あんたは船に乗せられんけぇ、京都へ去んなさい」といわれたそうです。が、娘さんは「いや隠岐に近いここ米子に居たい」てって安養寺に行かれたそうですと。
村の人は、はあこの人は天皇さんの娘さんだ、てぇので大事に扱ったそうです。秋になって栗がとれると「まあ初物の栗なと食べて寂しさをまぎらわっさい、初物は七十五日の長生きだけえ」と言ったかどうかは知りませんけど、かごに栗を山盛りに入れて持って来たそうです。
ところが箸より重い物を持ったことがないような宮中の暮らししか知らん娘さんには、堅い生栗の皮がむけんので、エイ面倒なり、と皮に歯形を付けたまま、もしこの栗が芽吹けば父天皇は隠岐から帰れる、といって寺の庭に埋められていた。とも、いやいや栗はゆで栗で、その一つを、もし芽吹けば…といって植えられたとも、生栗の一つを噛み砕いて、もし芽吹けば…と運試しに植えられた、といろいろに語られますが、その結果はどれも同じで、次の年、みごとに栗の芽が出たそうで。
娘さんの占い通りに父天皇は流された次の年、隠岐を脱出、船上山から京に帰られた話はご存知の通り。
ところが娘さんは米子がすっかり気に入って、かどうか知りませんけど、京に帰るのをやめて安養寺に残られ、十八才の時、髪を降ろして尼さんになられたそうです。
「桃栗三年・柿八年」いうでしょう。丁度尼さんになられた頃、例の栗の木に実がなりました。いそいそと初生りの栗のイガを広げて見たところ、アーラ不思議や栗の皮には歯形がくっきり付いていましたと。この歯形粟は歯痛に利く、といいましたが、木は枯れて今はありません。


かつて歯形栗があった跡

平成12年10月号掲載

前のおはなしへ 次のおはなしへ
掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。