尾高城の山中鹿介

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尾高城の山中鹿介

尾高城の山中鹿介

昔話に「三枚のお札」という話があります。

…むかし、和尚さんが小僧さんを山に花採りに行かせましたが、お守りにお札を三枚持たせました。小僧さんは花採りに夢中になり、気がつくと周りは真っ暗。困っていると、山中の一軒家に明かりが見えます。小僧さんは家に行き「一晩泊めて」と頼むと、婆さんが出て来て心よく泊めてくれました。小僧さんは昼の疲れですぐ寝てしまいましたが、夜中に目が覚めたら「この小僧はうまそうだ。こっちのほっぺから食べようかな。あっちのほっぺから食べようかな」とほほをなでとるではありませんか。こりゃ山婆だ。逃げ出さんと殺される。小僧さんが「しっこをしたい」と言うと、山婆は「わしの手の中にせえ」「そんな、もったいない」「そんなら」と小僧さんの腰に縄を付けて便所に行きました。中に入ると小僧さんは、便所の神さんに代返を頼み、縄は柱に結び付けて窓から逃げ出しました。山婆は縄を引きながら「まだかあ」「まだだあ」「まだかあ」「まだだあ」山婆はしびれを切らして戸を開け、逃げられたと知って急いで追いかけますが、小僧さんは三枚のお札に助けられて、命からがらで寺に帰った…

という話です。

元亀2年(1587)世は戦国時代で、中国地方では毛利と尼子が覇を争い、尼子側の敗色が濃くなっていました。尼子十勇士の筆頭・山中鹿介幸盛も捕らわれの身となって、尾高城の牢に閉じ込められました。敵の様子を探るため、わざと捕らわれたともいわれます。何にしても大物でしたので警戒も厳重で、大勢の侍が彼を取り囲んでいました。
彼は捕らわれて間なしに「下痢だ」といって便所通いをしだしました。その度に警護の侍も、ぞろぞろと便所について行きましたが、何しろ1日に百数十回通ったので、最後には気を許して彼一人で行かせました。この時を待っていた彼は、便所からまんまと脱出しました。時に7月20日・今の暦で8月10日のことでした。
しかし彼は、三枚のお札を持っていません。また捕らえられ、広島へ護送途中の天正6年(1571)7月17日(太陽暦で8月20日)あわれ高梁(岡山県)の地で殺されてしまいました。享年34だったといいます。


尾高城跡は、米子ハイツを中心に公園として整備されている

平成11年8月号掲載

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掲載日:2011年3月18日

【利用上の注意】

掲載している昔話・伝説・言い伝えなどの民話は、地元の古老から聞いた話や地元での伝承話、また、それらが掲載された書籍などからの情報を載せているものですので、活用する際は次の点にご注意ください。

  • 民話は、ある程度の史実が背景にあったとしても、それが人々の想像の中で改変され、また、伝承の過程でさまざまな変化を遂げていきます。そのため、史実とは異なる内容、名称等が使用されている場合や学術的な裏付けがないものもあります。

  • 捉えかたにより、記載されている年号や年代、月日、読みかたなど、事実と異なる可能性があります。

  • 「過去の経験を後世に伝えたい先人の強い思い」として読みとるなど、「地域で語り継がれている事実」に着目することが必要となります。

  • 民話は、すべてが史実ではありませんが、地域にとってたいせつなものが含まれていると考えられます。

  • 筆者は、執筆に関しては、市内各地域をまんべんなく入れること(ただし、合併前のものなので淀江町域の話はありません。)、あまり血なまぐさい話は避けること、故人で忘れられている偉人を発掘し民話に託して語ること、などを心掛けて編集されています。