国史跡 米子城跡

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国史跡 米子城跡



天空の米子城跡

海に臨む天空の城

空も山も海も街も全部が一望できる場所

米子市の中心地、湊山に築かれた米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓(しじゅうやぐら))を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗(そうれい)な城であったといわれています。

近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正(てんしょう)19年(1591)頃、毛利一族の吉川広家(きっかわひろいえ)が湊山(みなとやま)を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長(けいちょう)7年(1600)の関ケ原(せきがはら)の戦(たたかい)の後、広家は岩国に転封(てんぽう)となり、代わりに駿府(すんぷ)から入った伯耆(ほうき)国18万石の領主中村一忠(なかむらかずただ)によって慶長7年(1602)頃完成したと伝えられています。

中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳(ないぜん)(まる)、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、山麓の二の丸には城主の館を、その下の三の丸には城主関連の館や作事場(さくじば)、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦(ふかうら)には水軍用の御船手郭(おふなでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷(さむらいやしき)が並びました。

中村氏の後、加藤貞泰(かとうさだやす)、池田由之(いけだよしゆき)と城主がかわり、寛永(かんえい)9年(1632)からは、鳥取(とっとり)藩主席家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かりとなり、以後十一代にわたって荒尾氏が管理しました。

明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(2006)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定され、令和3年(2021)三の丸の一部(旧湊山球場)が追加指定されました。 


【写真:城山上空から米子市街・大山を望む】

近年、発掘調査や保存整備が進む城跡の魅力はもとより、秀峰大山を初め、中海、日本海、市街地などを360度一望できる天守からの絶景は最高です。

天守まで15分。スーツでも登れる気軽さで、一度は見てみたい絶景がそこにあります。

米子城跡に関するさまざまな情報は次のリンクから
 リンク・新しいウィンドウで開きます … もっと知りたい!米子城

 リンク・新しいウィンドウで開きます … 「絶景の城 米子城」ホームページ

  
 【参考資料】

新しいウィンドウで開きます  米子城跡リーフレット
PDF 1.60メガバイト)
新しいウィンドウで開きます  米子城パンフレット
PDF 3.98メガバイト)

目次  
米子城の歴史 築城から解体までの歴史年表
米子城跡の姿 現在の米子城跡の解説
米子城にまつわる史跡 米子城に関連した史跡や文化財
米子城山の植物 城山一帯の植物をご紹介
 
掲載日:2022年3月25日